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小豆の力・ぜんざい [民俗・行事]

「ぜんざい(善哉)」は、小豆を砂糖で甘く煮た食べ物です。
関西では、小豆の粒が残っている状態のものを「ぜんざい」と呼び、こしあんでつくった汁粉のことを「おしるこ」と呼び、関東では、汁がないものを「ぜんざい」、汁があるものを「おしるこ」と呼ぶようです。
ぜんざいは、冬至の日に食べたり、鏡開きで食べたりと、年末年始には登場回数が多くなるスイーツです。

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小正月(1月15日)に小豆粥を食べると1年の邪気を払い、万病を除くという風習があります。
この風習は、『土佐日記』や『枕草子』にも描かれていることを、以前紹介しました。

十五日、今日、小豆粥煮ず。口惜しく、なほ日の悪しければ、ゐざるほどにぞ、今日二十日あまり経ぬる。
(土佐日記)


この小豆粥は、「七種粥」の風習を原型としており、『延喜式』巻第40に

正月十五日供御七種粥料。米一斗五升・粟・黍子・稗子(ヒエ)・ミノ・胡麻子(ゴマ)・小豆各五升、塩四升


という記述が見え、「七種粥」の材料として「小豆」が納められています。

6世紀頃の中国の湖北省・湖南省地方の習俗を伝える『荊楚歳時記』には、冬至に小豆を粥にして食します。

冬至の日、日の影を量り、赤豆粥を作りて以て疫を祓う。


冬至の日は、1年でもっとも昼が短く、夜が長い日です。
太陽の力がもっとも弱まる日であり、2012年の今年、金環日食を経験した人ならば誰もが体感したと思いますが、太陽が隠れることで気温が下がり、ある種の「異様さ」をおぼえました。天の岩戸神話における、天照大神がお隠れになったときの神たちの混乱を例に挙げるまでもなく、月と太陽の引力が地球に大きく作用することは、潮の満ち引きに限らず、科学的に証明されているところです。

太陽の力がもっとも弱まる日に「赤豆」を食すのは、自らの体にその霊力をこめようとする考えがあります。
豆は、節分で鬼を祓うために使われるように、その小さな穀物から生命がはぐくまれることから、霊力の源とされ、また、「小豆」ではなく「赤豆」と記すのは、赤がもつ邪を祓う力を期待したからです。
なぜ、赤は邪を祓うのかといえば、鬼は陽に属しており、赤色になぞらえられているからです。
『芸文類聚』「儺」の項、すなわち鬼を祓う儀礼には、鬼を祓うことを

赤疫を逐う


と記しており、「赤疫」とは鬼のことを指します。つまり、「赤=鬼」を祓うために、「赤」を用いるのです。
また、赤は血の色であり、生命の源、生命そのものでもあるのです。

その小豆を、正月にも食します。

正月十五日作豆糜
『荊楚歳時記』


赤豆の効能としては、利水除湿、消腫解毒、清熱利尿などです。
中国の医書「肘後備急方」には、「大腹水病」を治す処方として

常食小豆飯小豆汁鱧魚佳也


とあり、「小豆飯」や「小豆汁」が良いとされています。
この「大腹水病」という病気は、「愚管抄」に

法皇は崩御ある。前の年より御病ありて少しよろしくならせ給などきこへながら、大腹水病と云御悩にて、御閉眼の前日まで御足などはすくみながら、長日護摩御退転なくをこなはせてをはしましけり。


とあり、後白河院が悩まされ続けた病気でもあります。


霊力がこめられた小豆は、邪を祓い、そして体にも良いものであることから、無病息災を願うお正月にはぜひとも食べたいものです。


新春のお菓子・はなびら餅 [年中行事]

Every year, I've ordered a hanabira-mochi.
A hanabira-mochi is a sweets that is a symbol of a New Year sweets in Japan. I can feel the season by Japanese sweets.

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このはなびら餅に関しては、他で書いたものですが。

はなびら餅は、京都のお雑煮に見立てた、お正月のお菓子です。
正式な名称は「菱葩餅(ひしはなびらもち)」で、白味噌のあんを、ごぼうと共に求肥で包んであります。もともとは、求肥ではなく、つき餅であるといわれています。茶道裏千家の初釜の主菓子として有名ですね。

ごぼうを包むのは、裏千家初釜の「菱葩(ひしはなびら)」を菓子にしたものであるためという説もあります。
「菱葩」は丸く平らにした白餅に、赤い小豆汁で染めた菱形の餅を薄く作って上に重ね、柔らかくしたふくさごぼうを二本置いて、押し鮎に見立てたものです。
鮎は「年魚」と書きますので、年始のものとして『土佐日記』にも出てきます。

元日。(略)
もとめしもおかず。たゞおしあゆ(押鮎)のくちをのみぞすふ。このすふひとのくちを、おしあゆもしおもふやうあらんや。「けふはみやこのみぞおもひやらるる。こへ(小家)のかどのしりくべなは(端出之繩)のなよし(鯔)のかしら、ひゝらぎ(柊)ら、いかにぞ。」とぞいひあへなる


白みそとお餅、そしてごぼうということで、京都のお雑煮を模したものとされ、「包み雑煮」とも呼ばれています。
もともとは、宮中の正月料理です。
甘煮のごぼうは押鮎を見立てたものとされ、塩漬けした鮎(押鮎)など堅い物を食べ、長寿を願う平安時代の新年行事「歯固めの儀式」が由来ともいわれますが、餅も小豆も新年には欠かせないもので、お屠蘇と同じように、長寿や厄除けの意が込められた正月菓子です。


新春のたべもの・寿桃 [年中行事]

This is 寿桃(Suutou). This sweet is known as “Momo-man” in Japan.
寿桃 is a Chinese sweet that mimics the peach.
I want to eat 寿桃 on New Year's Day. Because, 寿桃 is a symbol of longevity and good luck.
Commonly, peach exorcises the evil spirit and mean longevity in China and Japan.

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春が近づくと、中国のこの饅頭が気になり始めます。
「春が近づくと」と書くと、この寒い時期、違和感を覚えるかもしれませんが、現在は、12月中旬です。
そして、1月といえば、まだまだ寒いですが、新年は「新春」ともいい、1月から3月は「春」です。
現在は、新暦ですから、違和感を覚えるのも仕方ありません。
旧暦で考えると、2013年1月1日は、2013年2月10日です。
花の中でも、真っ先に咲く水仙は、12月下旬から3月までが開花時期であり、春の花として定着しているの開花時期は、1月下旬から2月ですので、まさに、旧暦の1月1日は、花がほころびはじめる「春」なのです。
そして、旧暦の3月は、新暦の4月から5月中旬ですので、まさに「新緑」の時期。
「春」ですね。

「寿桃」は、「スートー」もしくは「スートゥ」と読み、長寿を願う中国の伝統菓子です。日本では「桃まんじゅう」「桃まん」ともよばれ、現在では中華街などで購入することができます。
桃の果実は、日本古代史に登場します。
2003年に国の史跡・名勝に指定された、日本初の本格的な宮廷庭園址とされる「飛鳥京跡苑池」では、7世紀後半の遺跡です。池の周囲には桃や梅、柿などが植えられていました。
また、2005年、奈良の平城京跡では、奈良時代の桃の種が76個出土しました。
卑弥呼が神に献上したのも、桃だと推測されたりしています。
桃は、古代日本においては薬効があり、邪を祓う果物として、珍重されました。
イザナギが黄泉の国から逃げるときに、桃の実を投げて災いからのがれたエピソードや、鬼退治をする「桃太郎」の話は、邪(魔)を祓うという桃の効果を説話化したものです。
これは、中国の影響を指摘することができるでしょう。

桃の果実は、長寿を象徴しています。
「神異経」に

東方に樹高五十丈の大木あり、名付けてという。その果実は径三尺二寸。その核と共に羹として食せば人は長寿を得る


とあります。
また、桃と正月の関係は、中国の『荊楚歳時記』からもうかがえます。

長幼悉く衣冠を正し、以次拝賀し、椒柏酒を進め、桃湯を飲み、屠蘇酒・膠牙【食+易】を進め、五辛盤を下し


元旦には、衣冠を正して拝賀し、「椒柏酒」すなわち山淑と柏葉をひたした香りの強い酒をすすめ、「桃の湯」を飲み、「屠蘇酒」と「膠牙飴」すなわち固飴を進めて、「五辛盤」すなわちネギやニンニクなどの辛味の若菜を食べる行事を行うと、鬼人などを退けることができるとあります。
これは、「屠蘇」の説明でも紹介しました。

また、桃の木は魔よけの効果があるといわれているため、「桃符」という、年越しのときは対聯を桃の木の板に彫ったものを飾ります。
仙人のすむ地を「桃源郷」といいますが、桃はそこになる仙果とされ、西王母(古代中国の女神)は、漢の武帝に、3000年に一度実がなるという不老不死の仙桃を授けたともいわれます。
つまり、桃とは、長寿と関連づけられて登場することが多い果実であり、そのため桃の果実を「寿桃」ともよび、桃をかたどった饅頭を「寿桃」とよぶようにもなりました。
「寿桃」は、誕生日にケーキを食べる習慣と同じように、長寿を祝う際に供されます。

正月になると、この「寿桃」が気になるのは、屠蘇が長寿を祝い邪を祓うことと同じ原理からです。
現在は、おせち料理も洋風・中華風など、いろいろあります。
日本式のお正月の他に、このような演出もよいのではないでしょうか。

このほんのりピンク色の、春らしい装い。
新春を祝うのにふさわしい饅頭ではないでしょうか。


日本で似たようなものといえば、新春の生菓子「はなびら餅」です。
新春をいろどる美しいたべものです。


タグ:新春 桃

おみくじ [民俗・行事]

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初詣につきものの、「おみくじ」です。
神社では、おみくじを引いた後に、木などに結び付ける光景がよく見られます。
先日、少し気になる番組がありましたので、今回は、おみくじの話をしたいと思います。

おみくじをひいて、木などに結び付ける行為には、意味があります。
それは、「願いを結び込める」ということです。
つまり、吉や大吉をひいたとき、その良い結果が実現するように、「結び込める」ということですから、凶や大凶など、良くない結果をひいてしまったときは、木に結び付けてはいけません。なぜなら、悪い結果を「結び込める」ことは、その悪い結果を現実のものとしてほしいということに他ならないからです。

それに関して、「利き手とは反対の手で結びつける」と良いと説明しているものもありますが、それも悪い結果を「結び込める」ことになるわけですから、正解としては、神社の方にお願いして、お焚きあげをしてもらうことです。



この時期、おみくじを引く機会も多くなると思います。
作法の意味がわかると、どのように行動すればいいのか、よくわかりますね。


タグ:おみくじ

生きている行事・四月の魚 [年中行事]

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[引用]ミュゼ・ドゥ・ショコラ・テオブロマ


「四月の魚(しがつのさかな)」は、フランス語で「四月馬鹿(エイプリルフール)」をあらわします。

4月1日はエイプリルフールです。
この日は、一般的には、軽いいたずらで嘘をついても許される日と認知されていますが、「April Fool」ですから、いわゆる「おばかさん」という意味です。

その起源はいろいろあるようですが、フランスでは、「ポワソンダブリル(Poisson d'Avril)」、つまり、ポアソンは「魚」、ダブリルは「4月」で「4月の魚」を意味します。
そこから、魚は「サバ」のことを指しますが、4月にはどんなエサをつけてもサバが食いついてくることから、「おばかさんなサバ」が由来とする説が有名です。
他の起源をみてみると、おそらくこれは、後の解釈だとは思いますが。

しかし、フランスにおいて「4月」と「魚」は、「ポワソンダブリル」の語が示すように、深い関わりを持っており、4月1日にもなると、魚をかたどった魚肉のムースや、魚をかたどったケーキ、魚の形をしたチョコレートが店頭に並び、また美しくデコレーションされています。

ジェームス三木『結婚という冒険』(未來社、1986)の中に、「危険なパーティー」という小説が載っていますが、これを原作にした映画が「4月の魚」(1986)。
この中で、フランスでは4月1日を「ポワソンダブリル」といい魚の形をしたチョコレートを贈ると恋愛が成就するという嘘をつくシーンがあります。

この原作が先なのかどうかはわかりませんが、現在では、このチョコレートを贈るという行為から、いわゆるバレンタインデーのような意味が付加されてもいるとのことです。
つまり、4月1日に魚のチョコを好きな人に贈り、見事両想いになることができたらラッキーですし、もし片想いのままだとしても、それは「冗談」として軽く流せるというわけです。
告白したいけれど、断られたらどうしよう、という、恋する者の、なんとも悩ましく微妙な気持ちを解消できるイベントと化しているわけですね。


このように、ひとつの行事が、その時代ごとに解釈され、意味付けされてイベント化し、社会に浸透していく様がここから窺えます。

たとえば「卒業式に、制服の第2ボタンを好きな子に渡す」というイベントも、先日、某番組で、特攻隊を扱った映画「予科練物語 紺碧の空遠く」(井上和男監督、1960)で、監督の演出によって生まれたことが出ていました。
井上監督によると、第2ボタンにした理由は「ハートにいちばん近いところにあるから」ということで、それがいつの間にか、恋する少年少女の卒業式のイベントになってしまったわけです。


行事というものは、「生きている」ことがわかります。

現在行われている神事や行事の中でも、後世になって新たに加わえられた部分がたくさんあります。
皇室行事も、時代にあわせてかなり変更されている部分もありますし、すでに廃れてしまった行事を復興するために正倉院の宝物が宮内庁に貸し出されたり、その時の解釈が間違っていたために、いまだに原形とは異なる様式が用いられ、それがいつの間には正式な形として定着していったものもあります。

それで良いと思います。



このような行事の移り変わりを見ていくのも楽しいものです。


若菜の力・春の七草 [年中行事]

春の七草・依山楼岩崎.jpg
[引用]依山楼岩崎


時期は過ぎましたが、「春の七草」を知っていますか?


1月7日には七草粥を食べるという風習があります。
その理由については、お正月のごちそうで疲れた胃を休めるためだという説明がよくなされます。これは、ある部分では当たっていますが、おせち料理が普及した比較的最近のことですね。

では、もともと「春の七草」を食べる風習はどこからきたのかということになりますが。



新たな春を迎え、若菜をつむ風習は奈良時代からありました。
7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に現存する最古の歌集である『万葉集』の最初に置かれた歌には、若菜を摘む少女たちの姿が描かれています。

篭もよ み篭持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われにこそは 告らめ 家をも名をも
(1-1)


歌意は、「籠よ、美しい籠をもち、へらよ、美しいへらを手に、この岡に菜を摘む娘よ。あなたはどこの家の娘か。名はなんという。そらみつ大和の国は、すべて私が従えているのだ。すべて私が支配しているのだ。私こそ明かそう、家柄も、わが名も」となります。
この歌は、雄略天皇の歌といわれていますが、現代風にいえば、いわゆる籠とスコップを持って、若菜を摘みにきていた娘に、求婚しているようすで、相手の名前や素性を知ることは、出会ってから男女が行う結婚に向けての行為です。

「そらみつ」は「大和」にかかる枕詞。
天空にそびえ、充満する意味で、大和の国の豊かさをあらわしています。
ここで天皇は「この大和の国を治めている者こそ、この私だ」と、雄々しく求婚していることから、『万葉集』の冒頭歌にふさわしく、力強い天皇の姿がうかがえますが、この歌は、もともとは春の野遊びでうたわれた若菜摘みの歌が、恋多き勇猛な天皇である雄略天皇の物語に取り入れられたものといわれます。



ここで少女達は、岡に登って、若菜を摘んでいますが、これは、春先の薬草を摘み、その霊力を身につけ邪気を払い、無病息災を願うための行事のこと。
若菜のその旺盛な生命力を感じ、タマフリするものです。

「タマフリ」とは「魂ふり」といい、弱っている魂(霊魂)をゆさぶり、その力を呼び戻すことです。


若菜は、春菜のことを指します。
ワカは生命の芽吹く様を示し、ワカを冠する植物は、聖地に生え、神の出現を示す聖なる木・植物をいいます。
例えば、若草というと、『万葉集』では、ツマ(妻・夫)、ニヒ(新)にかかる枕詞で、若草がみずみずしく柔らかであり、生命力にあふれ、力強い様から、若い妻や夫に譬えられています。
このことから、若菜には特別な力が宿るとされ、その菜を摘む場所は、聖なる場所という意識が生まれるわけです。

明日よりは 春菜採まむと 標めし野に 昨日も今日も 雪は降りつつ
(8-1427)


歌意は、「明日からは若菜を摘もうとしるしをした野だのに、昨日も今日も雪は降りつづけて」。
「標野」とは朝廷によってシルシが付けられた場所、つまり神の領域を示していて、その場所で、若菜摘みが行われていました。

つまり、先ほどの雄略の歌も、春のはじめに天つ神の御子たる天皇が、聖なる山に降臨して国見、つまり自分が支配する国を見渡して管理し、野に降りて萌えいづる大地の精である若菜をつむ聖なる少女に求婚し、大地の豊かなみのりを約束させる儀礼として解釈することができます。



摘んだ菜はどうするかというと。

春日野に 煙立つ見ゆ 少女らし 春野の うはぎ採みて 煮らしも
(10-1879)


「うはぎ」は「嫁菜」のこと。
キク科の植物で、春に若芽を摘んでおひたしやゴマ和えなどにして食用にできます。
ヨメナは関西にしかなく、関東地方にはカントウヨメナ(関東嫁菜)で、こちらは食用ではありません。
奈良の春日野に煙が立つのが見える、少女達が春の嫁菜を摘んで煮ているらしいよ、ということで、摘んだ若菜は煮込んで食べます。

こうした若菜を共に食べることで、仲間の一員になり、大人への仲間入りを果たすとも考えられています。





この若菜が、具体的にどの植物かというと、特に限定はされていません。
さきほどの「嫁菜」とか、セリとか・・・。

食薦(すこも)敷き 蔓菁(あをな)煮持ち来 梁(うつはり)に 行縢(むかばき)懸けて 息(やす)むこの公(きみ)
(16-3825)


この「あをな」というのは、いわゆる広い意味で使われていたものと思われますが、漢字でみると「カブ」です。
同時代のテキストである『古事記』に、「其地(そこ)の菘菜(あをな)を採む時に、天皇其の孃子(をとめ)の菘を採める処に到り坐して歌曰ひたまひしく」(仁徳記)とありますが、この「菘」もカブのことです。ちなみにカブは、「春の七草」でいうと、「すずな」にあたります。

一般に、葉を食用とする草を示すと考えられますが、この草は、野生の草だけでなく、栽培されたものをさすわけです。


『古事記』には「山県に蒔ける菘菜も吉備人と共にし採めば楽しくもあるか」などと、種をまいて栽培している植物をも指しますので、決して野生の草だけではありませんでした。
さらにいえば、「あおな」「わかな」の「な」は、食用の草花だけでなく、鳥や獣、魚などの肉を含めた、副食物全部をさす言葉で、いわゆる「肴」という言葉は、「酒・な」の意味で、後に「魚」だけをいうようにもなってきたわけです。
ここでは、「摘む」わけですから、植物を指しますが。

つまり、現在、「春の七草」というと、「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ」といわれますが、このときには特に種類が決まっておらず、春先の薬草を指しています。



よく、「四辻の左大臣」の作として

せり なづな 御形(おぎょう) はこべら 仏の座 すずな すずしろ これぞ七くさ


という「春の七草」の歌があるとされていますが、この歌は、『万葉集』をはじめ『古今和歌集』など、どの歌集にもありません。

「四辻の左大臣」とは、室町時代の『源氏物語』の注釈書『河海抄』を著した四辻善成(1326-1402)のことですが、彼は「十二種若菜」について記してはいても、七草について歌を読んだり、言及しているわけではありません。
室町時代の連歌師梵灯(1349-1417)の著した連歌注解書「梵灯庵袖下集(ぼんとうあんそでしたしゅう)」19番に

せりなづな ごぎやうはこべら 仏のざ すずなすずしろ 是は七種


という、似たような歌が載っていますが、特に「四辻の左大臣」の歌との関連はなく、その他にも若菜の種類を書いたものはたくさんありますが、その「七種の若菜」については諸説があり、その時代によって、若菜の種類が変動していたことがうかがえます。


江戸時代の曾榛堂による『春のななくさ』に

又或は云う、今松尾の社家より奉る七種は、芹、なつな、御形、はこべら、仏の座、すずな、すずしろ、又或は云う、今水無瀬家より献する若菜の御羹は青菜と薺ばかりなりとそ、云々


とあり、これがおそらく「春の七草」と称されようになったはじまりと考えられますが、このときも「七草」の種類は固定しておらず、おそらく、現在の形となったのは、比較的近年のことと考えられます。





いわゆる「春の七草」は、1月7日に食べますが、1月7日というのは、どこからきたのか、といいますと、これは中国の風習からきています。

晴れの食・おせち料理でも簡単にふれましたが、6世紀頃の中国の湖北省・湖南省地方の習俗を伝える『荊楚歳時記』によると、

正月七日を人日となす。七種の菜をもって羹をつくる
綵を翦りて人につくり、あるいは金を鏤りて人をつくり、もって屏風に貼る。また、これを頭ひんに戴く。また、華勝を造り、もって相いつかわす。高きに上りて詩をふす。


つまり、正月7日というのは「人日」の日であり、五節供の行事のひとつである「人日(七草)の節供」となります。
1月7日は、人日の日であり、その日に7種類の菜をもって羹をつくるとあります。その他、いろいろとしつらいを行い、高いところ、これは往々にして山に上るわけですが、山に登って、詩を読み、無病息災を願うわけです。


これは平安時代の『枕草子』にも描かれています。

七日。雪間の若菜摘み、青やかにて、例はさしもさるもの、目近からぬところに、持て騒ぎたるこそ、をかしけれ。
(第3段)


いわゆる若菜摘みの風習です。
このときはまだ若菜を摘むだけで、特に現在ような七草粥の風習になっているのではなく、若菜摘みを行い、そこで宴を開いたりしています。
ここでも、この7種類の菜については不明ですが、これを羹にする、つまり、煮て食べる風習があったわけです。

この7日の七種菜羹は、それを食べれば万病にかからないといわれ、疾病を払うものとして食べられました。このあたりは、他の五節供と同じく、「重陽の節供」の菊や「端午の節供」の菖蒲など、その季節の薬草を摂取することで無病息災を願うことになるわけです。
七草の種類は、まだこのときは確定していません。

『延喜式』巻第40に

正月十五日供御七種粥料。米一斗五升・粟・黍子・稗子(ヒエ)・ミノ・胡麻子(ゴマ)・小豆各五升、塩4升


という記述が見え、踐祚大嘗会解齋に興じられたとあります。
また、皇太神宮儀式帳(伊勢神宮の儀式帳)神祇部一にも、

正月七日 新菜御羹作奉。十五日 御粥作奉。


とあり、正月15日の粥は七種粥であったと考えられます。
止由気宮儀式帳、神宮雑例集にも同様の記述があり、「七種粥」があったことはここでわかりますが、現在の若菜のからなる「七草粥」とは明らかに異なります。


この儀式帳は延暦23年(804)の記録ですから、つまりこの時点において

 7日=若菜の儀
15日=御粥の儀

のふたつの儀が存在していたことがわかります。


15日に粥を食べる風習は、『土佐日記』や『枕草子』にも描かれていますが、これは「小豆粥」。

十五日、今日、小豆粥煮ず。口惜しく、なほ日の悪しければ、ゐざるほどにぞ、今日二十日あまり経ぬる。
(土佐日記)


現在でも、小正月(1月15日)に小豆粥を食べると1年の邪気を払い、万病を除くという風習がありますが、これは少なくとも平安時代にまでその起源を遡ることができるわけです。


『荊楚歳時記』にも、正月15日も「豆糜を作り、油膏を加え」た「豆粥」を食べるとありますが、七種であるかどうかは不明です。



実は、日本にはもともと、正月の初子(ね)の日に行われる「供若菜」の儀があり、正月最初の子の日に、若菜を摘み、羹として食べるという風習があります。
中国では、この日に、天子が自ら田を耕して祖先神を祭り、皇后は蚕の部屋を掃除して蚕神をまつる行事があり、奈良時代にもそれは伝わっています。
正倉院に残る手辛鋤と目利箒は、孝謙天皇の天平宝字2年(758)春正月3日の初子の日に用いられたものです。
この日の宴で歌われた大伴家持の歌が『万葉集』にあります。

始春(はつはる)の 初子(はつね)の今日の 玉箒(たまばはき) 手に執るからに ゆらく玉の緒
(20-4493)



それと並行して、中国の「人日の節供」も入り、若草の羹を食べる風習が定着していました。





もともとは別の行事だったこれらの風習が、時代を経て、「人日の節供」と初子の「供若菜」と合わさり、さらに、正月15日の七種粥とも結びついて、現在の七草粥の風習になったわけです。



タグ:春 七草

地蔵盆・地蔵の話 [民俗・行事]

地蔵盆・ブログROAD!.png
[引用]ブログROAD!


地蔵の話は、地蔵盆でも書きましたが、特に関西地方では今も地蔵盆の風習が残っています。

地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」という決意で、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、親より先に世を去った幼い子供の魂を救って旅を続ける菩薩です。

子供の魂を救うというのは、幼い子供は、親を悲しませ、また、早くにこの世を去ることから親孝行ができていないため、この世での功徳がありません。
となると、当然、三途の川は渡れません。


そこで賽の河原で石の塔婆作りますが、それは鬼によって壊されてしまう。
だから、またはじめから作り直すわけですが、また壊される。
それを助けるのが、地蔵菩薩というわけです。


「川」というのは、お年玉のところでも書きましたが、いわゆる境界線。
異界であると同時に、神聖な場所であるわけです。

神社仏閣が、川の向こう側につくられたり、例えば、大阪の四天王寺や京都の平等院の中に人口の川が設けられていますが、これは、川を隔てて、現世の来世、この世とあの世を示しており、さらに、俗と聖の区別を示す象徴的な造形です。


このことから、人が死ぬと、川で罪や穢れをはらい清めて、神霊・祖先が集う他界(死の世界・聖の世界)に渡ることになります。

子供は、まだ人間としては完成されていないことから、賽の河原に集り、塔婆を立てて功徳を積まなければなりません。
賽の河原の「賽」は境界をあらわす語。
つまり境界にある場所で、子供は功徳を積むわけです。
それはとてもつらく苦しいことなので、それを生きている親が助ける信仰が出てきます。
現在も河原に石が積んであることがありますが、それは、親が死んだ子のために石を積んで、成仏を願う行為なのです。


地蔵が、そんな子供を救うのは、おそらく、道祖神信仰との関係もあるでしょう。

道祖神は、集落の境や、集落の内と外の境界、道の辻、三叉路などに建ち、集落の守り神であり、子孫繁栄、あるいは交通安全の神として信仰されている神です。
よく、道に石像や石碑がありますが、それです。

一方、「六地蔵」は、六道それぞれを守護する地蔵であり、他界への旅立ちの場である葬儀場や墓場に多く建てられています。
その地蔵と、路傍の神である道祖神が結びついて、集落の「結界の守護神」として建てられることが多いです。

つまり、境界の守護をする地蔵が、境界で苦しむ子供を救うのです。



このような賽の河原と地蔵の関係は、「地蔵和讃」などにも見えますので、気になる人は参考に。
参考:http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jizouwasan.htm


タグ:地蔵盆

お年玉・年神様の加護と恩恵 [年中行事]

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子供のころ、正月になると楽しみだったのが、お年玉。
現在は、新年を祝い、金銭などを子供に与える習慣になっていますが、もともとは年神様の加護や恩恵を願ったものです。

現在も、京都の桂川では、新年の朝に河原で石をとる風景が見られます。
これは車折神社に奉納するためです。


正月には年神様をお迎えするのですが、年神様は、異界であると同時に、神聖な場所である河原に新しく宿ると考えられていました。
このことから、年神様を迎えに河原に行き、神が宿るとされる石を持ち帰るのです。

その石は、近くの車折神社に供えます。
つまり、年神様の霊力を宿した石を神に供えることで神の加護を願い、また供えることで自分にも年神様の霊的な力が宿ると考えられていたわけです。


折口信夫的に説明すれば、「みたまのふゆ」
「みたま」とは霊魂・神霊であり、「ふゆ」は「振るふ」「触るる」などに通じ、その霊威に触れることによって、自らのみたまを奮い立たせること、その恩恵を得るということです。


お年玉は「年神様」の「魂(たま)」を意味します。

毎年やってくる年神様の霊力に触れ、その霊的な力を身につけることで、自らの力を更新して1年を健やかに過ごすことが、お年玉の起源です。



現在、車折神社では、その本来の意味が見えにくくなっていることが、少し残念ですね。


年末年始の行事(補)・屠蘇と歯固め [年中行事]

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[引用]室礼


屠蘇が、元旦に飲む薬膳酒であることは、以前に紹介しましたが、この屠蘇は、同じく年始の行事である「歯固め」儀礼とも関係の深いものです。

屠蘇については、中国の『荊楚歳時記』に次のように記されています。

長幼悉く衣冠を正し、以次拝賀し、椒柏酒を進め、桃湯を飲み、屠蘇酒・膠牙【食+易】を進め、五辛盤を下し


元旦には、衣冠を正して拝賀し、「椒柏酒」すなわち山淑と柏葉をひたした香りの強い酒をすすめ、「桃の湯」を飲み、「屠蘇酒」と「膠牙飴」すなわち固飴を進めて、「五辛盤」すなわちネギやニンニクなどの辛味の若菜を食べる行事を行うと、鬼人などを退けることができるとあります。

凡そ飲酒の次第、小より起す


また、飲む順番は、年少者からと記されています。


拝賀に続いて、このように薬酒や香味(辛味)の強いものを食することにより、長寿を祈り、悪鬼を退けることがうかがえます。

『延喜式』には、元日の御薬として、さまざまな薬酒とともに「屠蘇」が見えます。

屠蘇一剤。
屠蘇酒治悪気温疫。辟邪風毒気。度嶂山三人。一人服酒。一人服粥。一人空腹也。服酒者免。又往至長安中。時気免者比門華佗。以此方与曹武帝。作此酒。皆他分布者。民家悉竝者験。及江東蔡司徒家用至有良験。名屠蘇酒也。朱本云云。


悪気を治し、毒気を避けるものとして、華佗の処方とあります。
元日に供される薬酒はいずれも、病平癒・予防を目的としたものです。

現在、屠蘇器は、3つの杯が用意され、杯を替えて3杯飲むことになっていますが、『延喜式』にも、薬酒を供するのに3脚用意されます。
それぞれに薬酒を入れるようで、屠蘇はそのうちの1脚に入れます。



朝賀の儀は、『日本書紀』に

二年の春正月の甲子の朔に、賀正禮畢りて、即ち改新之詔を宣ひて曰く


とあり、大化2年から行われていましたが、天武天皇の世になると、儀式もかなり整えられていきました。




長寿を祈るものとして、屠蘇や薬酒の他に、固飴がありますが、これがいわゆる「歯固め」の儀式となります。

「歯固め」の儀式は、正月の三が日、硬い食べ物を食べて、歯(齢)を固め、長寿を願うものですが、中国では、辛味の強いものを食するのですが、日本では、

蘿蔔味醤漬瓜。糟漬瓜。鹿宍。猪宍。押鮎。煮塩鮎。


などが、天皇に進められ、元日から3日まで供されることが『延喜式』に記されています。
『西宮記』には、「大根・菰・串刺・押鮎・焼鳥等」を供するとあり、やがてこれが、「餅鏡」(今日の鏡餅)となっていきます。


ちなみに、正月の食材として、大豆や小豆、鰹、搗栗、栗、干柿、橘などがありますが、これらも正月のものとして『延喜式』に記されています。




これらの行事が整えられ、恒例化されたのは、嵯峨天皇の時代からです。
なお、嵯峨天皇の時代は、宮廷の文化が盛んになり整理された時期でもあります。



晴れの食・おせち料理に、『紫式部日記』に描かれた「御戴餅(いただきもちひ)」の行事について引用しましたが、戴餅の儀は、年頭に幼児の頭上に餅を3回上げ下げし、前途を祝って祝言を唱える儀式であり、餅鏡も戴餅も、新年に餅を記したものです。


餅に関する記事をもう1つ。

『日本書紀』に神武天皇が大和入りをする際、敵に阻まれます。
その打開策を求めて、天皇は夢告を受け、天香山の頂の土を取りに行かせます。

天皇、又因りて祈ひて曰はく、「吾今まさに八十平瓮を以て、水無しに飴を造らむ。飴成らば、吾必ず鋒刀の威を仮らずして、坐ながら天下を平けむ」とのたまふ。乃ち飴を造りたまふ。飴即ち自づからに成りぬ。


大和の地をあらわす天香山の土で土器を作り、それで水なくして飴ができれば自分が大和(天下)を平らげることができるだろうという誓約をし、飴ができます。

「飴」は「たがね」とよみ、米の粉を水で練って丸めた餅や飴のことではないかといわれますが、餅や飴に、神の加護や呪力が付されていたことが、ここからもうかがえます。



正月には、このように無病息災と子孫繁栄を願う行事があることは、大切なことです。



江戸時代の『野乃舎随筆』には、古式にのっとった屠蘇の行事が描かれています。

元日の屠蘇の袋を、今紅の絹を以て、三角に縫ふは僻事也。茜の絹して四角に縫ひ、大白の糸を以てむすぶが故事なりとぞ


江戸時代には、屠蘇は出入りの医師から年内に贈られたりしますが、多くは薬屋が調合した屠蘇散を買い求めていました。

「大白」とは、太い絹のことです。
屠蘇袋が三角ではなく四角に縫うことは、重箱の数でも書きましたが、四季などが関係するかもしれませんね。


屠蘇酒は、年賀に来た人に勧めるのが礼儀です。
良い年を迎えたいものですね。



おせち料理(補)・重箱の数 [年中行事]

晴れの食・おせち料理で、「おせちは五段重が基本形」と書きましたが、その補足を。



おせち料理が、もとは節会の際の料理である「お節供料理」からきたものであり、正月三が日に食べる料理であることは書きました。
節会の献立は、だいたい以下のような形です。

摘み入れ・銀杏・大根の汁
にんじん・ごぼう・田作・焼き豆腐・里芋の煮しめ
大根・にんじん・田作のなます
塩引き鮭

香の物

このうち、野菜の煮しめだけを「おせち」といい、重箱に詰められるようになりました。
その後、いわゆる練り物であるかまぼこなど、種類が増えるようになり、現在の形になります。


五段重は、奇数が陽数であることからきていますが、五の重を省略した四段重を正式とする考え方もあります。
その際、四段重は、「四季」をあらわすとされます。


江戸時代の『年中故事』には、

  組重
四重は四季を象る故に、煮物も四季に応ず、春、〔青菜の類〕。夏、〔白薯蕷の類。総じて白なり〕。秋、〔赤、胡蘿蔔、色附寒天、生姜の類〕。冬、〔黒、椎茸、串鮑、革椎、牛房の類〕。外に一つの器に鶏卵の黄身、是は四季の土用に象る


とあり、五行思想によった色彩が見られます。



春・夏・秋・冬


四段重は、こうした1年のサイクルを示すものであり、年のはじめに、1年の健康と繁栄を祈って詰められる節会の料理なのです。




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