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若菜の力・春の七草 [年中行事]

春の七草・依山楼岩崎.jpg
[引用]依山楼岩崎


時期は過ぎましたが、「春の七草」を知っていますか?


1月7日には七草粥を食べるという風習があります。
その理由については、お正月のごちそうで疲れた胃を休めるためだという説明がよくなされます。これは、ある部分では当たっていますが、おせち料理が普及した比較的最近のことですね。

では、もともと「春の七草」を食べる風習はどこからきたのかということになりますが。



新たな春を迎え、若菜をつむ風習は奈良時代からありました。
7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に現存する最古の歌集である『万葉集』の最初に置かれた歌には、若菜を摘む少女たちの姿が描かれています。

篭もよ み篭持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われにこそは 告らめ 家をも名をも
(1-1)


歌意は、「籠よ、美しい籠をもち、へらよ、美しいへらを手に、この岡に菜を摘む娘よ。あなたはどこの家の娘か。名はなんという。そらみつ大和の国は、すべて私が従えているのだ。すべて私が支配しているのだ。私こそ明かそう、家柄も、わが名も」となります。
この歌は、雄略天皇の歌といわれていますが、現代風にいえば、いわゆる籠とスコップを持って、若菜を摘みにきていた娘に、求婚しているようすで、相手の名前や素性を知ることは、出会ってから男女が行う結婚に向けての行為です。

「そらみつ」は「大和」にかかる枕詞。
天空にそびえ、充満する意味で、大和の国の豊かさをあらわしています。
ここで天皇は「この大和の国を治めている者こそ、この私だ」と、雄々しく求婚していることから、『万葉集』の冒頭歌にふさわしく、力強い天皇の姿がうかがえますが、この歌は、もともとは春の野遊びでうたわれた若菜摘みの歌が、恋多き勇猛な天皇である雄略天皇の物語に取り入れられたものといわれます。



ここで少女達は、岡に登って、若菜を摘んでいますが、これは、春先の薬草を摘み、その霊力を身につけ邪気を払い、無病息災を願うための行事のこと。
若菜のその旺盛な生命力を感じ、タマフリするものです。

「タマフリ」とは「魂ふり」といい、弱っている魂(霊魂)をゆさぶり、その力を呼び戻すことです。


若菜は、春菜のことを指します。
ワカは生命の芽吹く様を示し、ワカを冠する植物は、聖地に生え、神の出現を示す聖なる木・植物をいいます。
例えば、若草というと、『万葉集』では、ツマ(妻・夫)、ニヒ(新)にかかる枕詞で、若草がみずみずしく柔らかであり、生命力にあふれ、力強い様から、若い妻や夫に譬えられています。
このことから、若菜には特別な力が宿るとされ、その菜を摘む場所は、聖なる場所という意識が生まれるわけです。

明日よりは 春菜採まむと 標めし野に 昨日も今日も 雪は降りつつ
(8-1427)


歌意は、「明日からは若菜を摘もうとしるしをした野だのに、昨日も今日も雪は降りつづけて」。
「標野」とは朝廷によってシルシが付けられた場所、つまり神の領域を示していて、その場所で、若菜摘みが行われていました。

つまり、先ほどの雄略の歌も、春のはじめに天つ神の御子たる天皇が、聖なる山に降臨して国見、つまり自分が支配する国を見渡して管理し、野に降りて萌えいづる大地の精である若菜をつむ聖なる少女に求婚し、大地の豊かなみのりを約束させる儀礼として解釈することができます。



摘んだ菜はどうするかというと。

春日野に 煙立つ見ゆ 少女らし 春野の うはぎ採みて 煮らしも
(10-1879)


「うはぎ」は「嫁菜」のこと。
キク科の植物で、春に若芽を摘んでおひたしやゴマ和えなどにして食用にできます。
ヨメナは関西にしかなく、関東地方にはカントウヨメナ(関東嫁菜)で、こちらは食用ではありません。
奈良の春日野に煙が立つのが見える、少女達が春の嫁菜を摘んで煮ているらしいよ、ということで、摘んだ若菜は煮込んで食べます。

こうした若菜を共に食べることで、仲間の一員になり、大人への仲間入りを果たすとも考えられています。





この若菜が、具体的にどの植物かというと、特に限定はされていません。
さきほどの「嫁菜」とか、セリとか・・・。

食薦(すこも)敷き 蔓菁(あをな)煮持ち来 梁(うつはり)に 行縢(むかばき)懸けて 息(やす)むこの公(きみ)
(16-3825)


この「あをな」というのは、いわゆる広い意味で使われていたものと思われますが、漢字でみると「カブ」です。
同時代のテキストである『古事記』に、「其地(そこ)の菘菜(あをな)を採む時に、天皇其の孃子(をとめ)の菘を採める処に到り坐して歌曰ひたまひしく」(仁徳記)とありますが、この「菘」もカブのことです。ちなみにカブは、「春の七草」でいうと、「すずな」にあたります。

一般に、葉を食用とする草を示すと考えられますが、この草は、野生の草だけでなく、栽培されたものをさすわけです。


『古事記』には「山県に蒔ける菘菜も吉備人と共にし採めば楽しくもあるか」などと、種をまいて栽培している植物をも指しますので、決して野生の草だけではありませんでした。
さらにいえば、「あおな」「わかな」の「な」は、食用の草花だけでなく、鳥や獣、魚などの肉を含めた、副食物全部をさす言葉で、いわゆる「肴」という言葉は、「酒・な」の意味で、後に「魚」だけをいうようにもなってきたわけです。
ここでは、「摘む」わけですから、植物を指しますが。

つまり、現在、「春の七草」というと、「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ」といわれますが、このときには特に種類が決まっておらず、春先の薬草を指しています。



よく、「四辻の左大臣」の作として

せり なづな 御形(おぎょう) はこべら 仏の座 すずな すずしろ これぞ七くさ


という「春の七草」の歌があるとされていますが、この歌は、『万葉集』をはじめ『古今和歌集』など、どの歌集にもありません。

「四辻の左大臣」とは、室町時代の『源氏物語』の注釈書『河海抄』を著した四辻善成(1326-1402)のことですが、彼は「十二種若菜」について記してはいても、七草について歌を読んだり、言及しているわけではありません。
室町時代の連歌師梵灯(1349-1417)の著した連歌注解書「梵灯庵袖下集(ぼんとうあんそでしたしゅう)」19番に

せりなづな ごぎやうはこべら 仏のざ すずなすずしろ 是は七種


という、似たような歌が載っていますが、特に「四辻の左大臣」の歌との関連はなく、その他にも若菜の種類を書いたものはたくさんありますが、その「七種の若菜」については諸説があり、その時代によって、若菜の種類が変動していたことがうかがえます。


江戸時代の曾榛堂による『春のななくさ』に

又或は云う、今松尾の社家より奉る七種は、芹、なつな、御形、はこべら、仏の座、すずな、すずしろ、又或は云う、今水無瀬家より献する若菜の御羹は青菜と薺ばかりなりとそ、云々


とあり、これがおそらく「春の七草」と称されようになったはじまりと考えられますが、このときも「七草」の種類は固定しておらず、おそらく、現在の形となったのは、比較的近年のことと考えられます。





いわゆる「春の七草」は、1月7日に食べますが、1月7日というのは、どこからきたのか、といいますと、これは中国の風習からきています。

晴れの食・おせち料理でも簡単にふれましたが、6世紀頃の中国の湖北省・湖南省地方の習俗を伝える『荊楚歳時記』によると、

正月七日を人日となす。七種の菜をもって羹をつくる
綵を翦りて人につくり、あるいは金を鏤りて人をつくり、もって屏風に貼る。また、これを頭ひんに戴く。また、華勝を造り、もって相いつかわす。高きに上りて詩をふす。


つまり、正月7日というのは「人日」の日であり、五節供の行事のひとつである「人日(七草)の節供」となります。
1月7日は、人日の日であり、その日に7種類の菜をもって羹をつくるとあります。その他、いろいろとしつらいを行い、高いところ、これは往々にして山に上るわけですが、山に登って、詩を読み、無病息災を願うわけです。


これは平安時代の『枕草子』にも描かれています。

七日。雪間の若菜摘み、青やかにて、例はさしもさるもの、目近からぬところに、持て騒ぎたるこそ、をかしけれ。
(第3段)


いわゆる若菜摘みの風習です。
このときはまだ若菜を摘むだけで、特に現在ような七草粥の風習になっているのではなく、若菜摘みを行い、そこで宴を開いたりしています。
ここでも、この7種類の菜については不明ですが、これを羹にする、つまり、煮て食べる風習があったわけです。

この7日の七種菜羹は、それを食べれば万病にかからないといわれ、疾病を払うものとして食べられました。このあたりは、他の五節供と同じく、「重陽の節供」の菊や「端午の節供」の菖蒲など、その季節の薬草を摂取することで無病息災を願うことになるわけです。
七草の種類は、まだこのときは確定していません。

『延喜式』巻第40に

正月十五日供御七種粥料。米一斗五升・粟・黍子・稗子(ヒエ)・ミノ・胡麻子(ゴマ)・小豆各五升、塩4升


という記述が見え、踐祚大嘗会解齋に興じられたとあります。
また、皇太神宮儀式帳(伊勢神宮の儀式帳)神祇部一にも、

正月七日 新菜御羹作奉。十五日 御粥作奉。


とあり、正月15日の粥は七種粥であったと考えられます。
止由気宮儀式帳、神宮雑例集にも同様の記述があり、「七種粥」があったことはここでわかりますが、現在の若菜のからなる「七草粥」とは明らかに異なります。


この儀式帳は延暦23年(804)の記録ですから、つまりこの時点において

 7日=若菜の儀
15日=御粥の儀

のふたつの儀が存在していたことがわかります。


15日に粥を食べる風習は、『土佐日記』や『枕草子』にも描かれていますが、これは「小豆粥」。

十五日、今日、小豆粥煮ず。口惜しく、なほ日の悪しければ、ゐざるほどにぞ、今日二十日あまり経ぬる。
(土佐日記)


現在でも、小正月(1月15日)に小豆粥を食べると1年の邪気を払い、万病を除くという風習がありますが、これは少なくとも平安時代にまでその起源を遡ることができるわけです。


『荊楚歳時記』にも、正月15日も「豆糜を作り、油膏を加え」た「豆粥」を食べるとありますが、七種であるかどうかは不明です。



実は、日本にはもともと、正月の初子(ね)の日に行われる「供若菜」の儀があり、正月最初の子の日に、若菜を摘み、羹として食べるという風習があります。
中国では、この日に、天子が自ら田を耕して祖先神を祭り、皇后は蚕の部屋を掃除して蚕神をまつる行事があり、奈良時代にもそれは伝わっています。
正倉院に残る手辛鋤と目利箒は、孝謙天皇の天平宝字2年(758)春正月3日の初子の日に用いられたものです。
この日の宴で歌われた大伴家持の歌が『万葉集』にあります。

始春(はつはる)の 初子(はつね)の今日の 玉箒(たまばはき) 手に執るからに ゆらく玉の緒
(20-4493)



それと並行して、中国の「人日の節供」も入り、若草の羹を食べる風習が定着していました。





もともとは別の行事だったこれらの風習が、時代を経て、「人日の節供」と初子の「供若菜」と合わさり、さらに、正月15日の七種粥とも結びついて、現在の七草粥の風習になったわけです。





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