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シキミの祓い・正月の仏壇 [民俗・行事]

しきみ.jpg

正月が近くなると、仏壇の掃除や花などを取り替えたりすることも多くなると思います。

無病息災・年末年始の行事でも紹介しましたが、京都では12月13日を1年の区切りとして、この日からお正月の準備を始めます。
江戸時代には、この日に神棚や仏の「すす払い」を行っていたようで、現在の西本願寺・東本願寺のすす払いは、少し遅れた、12月20日。その他の神社仏閣でも、20日過ぎに行なわれています。

新年を迎える準備として、神棚を整え、仏壇の準備をするのは、いわば正月の風物詩かもしれません。


先日、我が家でも墓参りのついでに、仏壇用のシキミを持ち帰ってきました。




このシキミ、漢字では「樒」と書きますが、仏前に供える木として知られています。

モクレン科シキミ属で、分布地は本州以南。関東地方から琉球にかけて生育します。
常緑低木で、3~4月頃に花をつけ、葉は10センチの長楕円で光沢があり、その匂いはいわゆる「抹香くさい」といわれるように、抹香や線香の原料となります。(数珠にも用いられるそうです)
つまり、シキミを供えることで、お香を焚くのと同じ効果があるというわけです。

有毒植物で、特にその実は非常に強い毒性があるので、扱いには気をつけなければなりません。

「シキミ」の名は、実の形から「敷き実」が語源といわれる他、「悪しき実」の「あ」が取れたものといわれ、有毒ということで、動物が墓を掘り起こさないために植えられているといった説もあります。

確かに、シキミの葉や木を燃やすと、死臭も消すほど強い匂いを放つため、そのような用途に使われていたと考えられます。


シキミの匂いは、『源氏物語』や『枕草子』でも「いとおかし」と称されていますが、これは風情があるといっているのではなく、シキミが焚かれる場面をふまえて、婉曲にその匂いの強さを語っているものと思われます。



『万葉集』に次のような歌があります。

奥山の が花の 名のごとや
しくしく君に 恋ひわたりなむ
(大原真人今城 『万葉集』20-4476)


「奥山のシキミの花の名のように、私はこれからもしきりにあなたに恋いつづけるんだろうか」ということで、シキミが山の奥にあることがわかります。

シキミ自体は、山の奥深くに生えていることが多く、そのため、そこに人が葬られることも多いでしょうし、香木の効果を経験的に知っている人たちの間で、虫除け・動物除けの効果を期待したと考えることもできるでしょう。



有毒植物とはいえ、毒と薬は紙一重で、薬効もきちんとあります。
そのため、節分の豆を煎る際に、シキミの葉を1枚入れると魔がつかないといわれます。

ただ、薬効があるとはいえ、扱いには注意が必要であることを忘れずに。
シキミの実は、毒物及び劇物取締法で劇物に指定されていますので、無届で販売したりすると罰せられます。





仏壇には、だいたいシキミが供えられています。

一般的に、神さまごとには「榊」を、仏さまごとには「シキミ」といわれますが、現在は、シキミを入手することが難しいらしく、仏壇に榊を供えるところも多いようです。
シキミと榊は似ているので、間違って買う方も多いようですが。


もともとシキミは、『真俗仏事論』2に、

の実はもと天竺より来れり、本邦へは鑑真和尚の請来なり、其の形天竺無熱池の青蓮華に似たり、故に之を取りて仏に供す


とあるように、シキミの葉を蓮華の代用としていたわけです。
そのため、現在もシキミを仏に供えるわけで、

、閼伽の水汲みて参りたる女
(『花伝書』6)


と仏との関連が深いことがうかがえます。


しかし、このシキミは仏教であれば、宗派問わず供えられていたわけではありません。



日本の仏教の宗派は「十三宗五十六派」と言われていますが、時代的にはだいたい以下のように分けられます。

奈良時代=法相宗・華厳宗・律宗
平安時代=天台宗・真言宗
鎌倉時代=浄土宗・浄土真宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗・
        融通念仏宗・時宗
江戸時代=黄檗宗

それぞれの説明は、以下などを参照してみると良いです。

[参照]日本の仏教について
http://www.geocities.jp/zuigan495/somo2.html


現在ではその形も変化しているでしょうが、その教義などをあわせて見るとだいたい次のようになるでしょう。

浄土宗や浄土真宗は花は供えています。
華厳宗では、いわゆる東大寺では椿が供えられていましたので、花を供えることはあったようです。
禅宗(臨済宗や曹洞宗など)や日蓮宗は花も木も供えません。


では、シキミを供えるのは、どの宗派か、ということになりますが。

シキミは、修験道などの密教神道系である天台宗や真言宗の仏教儀礼にみられます。


天台宗の法華三昧懺儀、いわゆる法華懺法(法華三昧ともいう)では、シキミが儀礼の中に登場します。

懺法(せんぽう)とは、天台大師・智(ちぎ)によって制定されたもので、法華懺法の他、金光明懺法や方等懺法、請観世音懺法などが有名です。

懺は、梵語の懺摩の略で、罪を悔い改める意味で罪を心に固く忍び、はっきり認めること。悔とは、漢語で過去の罪を悔い改める義で、懺法とは、懺悔のことを指します。

法華三昧行法が基本となっており、『法華経』を読誦することによって、自らの罪を懺悔する修法です。
現在の法華懺法の形式を完成したのは、円仁です。

天台では、罪を悔い改めることにより身心の清浄を得、現世において仏心を成ずる課程に入るということで、大切な儀礼であり、この儀礼は、雅楽の伴奏で唱えられる荘厳華麗なもので、御白河法皇以来、宮中においては重要な法会となっています。


この法華懺法において、儀礼が成就したときに、仏が、また仏を祝福する印のものとして、ざるに入れたシキミを道場中にまきます
ここにシキミが登場します。

つまり、シキミは、天台宗の重要な仏教儀礼において用いられるものであり、このようすは、法然上人絵伝などにも見られます。



シキミを請来したのは鑑真と先に記しましたが、鑑真は、律宗と天台宗兼学の僧です。
鑑真によって天台宗関連の典籍が日本に入ってきたので、「鑑真による請来」というのも納得です。

天台宗は、平安時代に盛んになりましたが、これは、『源氏物語』に仏教儀礼に伴ってシキミが描かれていることからもうかがえます。

「(略)回向には、あまねき方にても、いかがは」
とあり。濃き青鈍の紙にて、にさしたまへる、例のことなれど、いたく過ぐしたる筆づかひ、なほふりがたく、をかしげなり。
二条院におはしますほどにて、女君にも、今は、むげに絶えぬることにて、みせたてまつり給ふ。
(『源氏物語』若菜下)


源氏は、朧月夜が出家したことに対し、手紙を出します。
内容は、かわいい恨み言という感じです。

「出家を望みながらまだ出家できていない私(源氏)を、(私に黙って出家してしまうように)あなた(朧月夜)がどんなに冷淡になっていても、さすがに回向の人数の中には入れてくださるだろうとたのみにされるところもあります」というもの。
それに対し、朧月夜もこれまでの2人の関係を思い返し、「回向には、この世のすぐれた方として、けっしてあなた(源氏)をもらしはいたしません」と答えています。
その内容が、濃い鈍色の紙に書かれて、シキミの枝につけてあったわけです。

これは、仏門に入る朧月夜の立場を演出するのに、シキミが登場します。

御かたはらなる、短き几帳を、仏の御方にさし隔てて、かりそめに添ひ臥し給へり。
名香の、いと、かうばしく匂ひて、の、いと、はなやかに薫れるけはひも、人よりは、けに、仏をも思ひ聞え給へる御心にて、わづらはしく、「墨染の、今更に、をりふし、心いられしたるやうに、あはあはしく、思ひそめしに違ふべければ、かかる忌なからん程に、この御心にも、さりとも、すこし、たわみ給ひなん」など、せめて、のどやかに思ひなし給ふ。
秋の夜のけはひは、かからぬ所だに、おのづから、あはれ多かるを、まして、峯の嵐も、籬(まがき)の虫も、心ぼそげにのみ聞きわたさる。常なき世の御物語に、時どき、さしいらへ給へるさま、いと、見所多く、目やすし。
(『源氏物語』総角)


仏の存在とともにシキミの香りが漂っています。
これも、仏教とシキミの関連をうかがわせます。



このように、シキミは仏教、特に、密教系の天台宗や真言宗の仏教儀礼と深い結びつきがあるわけです。

南北朝から室町時代あたりになると、中世的な神道と習合した天台宗は、修験者をつうじて全国に広がっていきます。
もちろん、その時代によって宗派の勢力というものがあり、その影響のもと、いろいろな宗派の教えが蓄積されて、現在の風習になっているので、シキミを供える風習も一般化していったのだと思います。




仏壇を整えながら、我が家の仏教を思うのも楽しいかもしれません。
特に文化交流の盛んだった地域では、とても深い文化層を見ることができるかもしれませんね。


晴れの食・おせち料理 [年中行事]

板前魂おせち.jpg
[引用]板前魂おせち


今年も残り2ヶ月。
クリスマスやお正月関連商品も見かけるようになりました。


年越し行事は、年の締めくくりと新たな年を迎える大切な年中行事です。
正月料理として、おせち料理が定番となったのは、庶民の文化が盛んになった江戸後期からですが、年の節目に行われる節供の料理がその由来。

奈良時代に中国からはいってきた五節供行事と、それまでの日本の行事が合わさり、年中行事というものは形成されてきました。
それは神と人との交流の文化といってもいいでしょう。
節目ごとに、神への感謝と、今後の無病息災、豊かな稔りを願うのが、五節供の行事。

1月7日=人日(七草)の節供
3月3日=上巳(桃)の節供
5月5日=端午(菖蒲)の節供
7月7日=七夕の節供
9月9日=重陽(菊)の節供


これは陰陽道で奇数を陽数として、奇数の重なる日をめでたいとして祝ったことによります。
1月1日は、上記の五節供とは別格の存在として位置付けられているという説もありますが、五節供の1月は7日です。

人日の節供については『荊楚歳時記』に

正月七日を人日となす。七種の菜をもって羹となす。
綵を翦りて人となし、あるいは金を鏤して屏風上に薄帖し、忽ち之を戴く。人を像りて新年に入り、形容改新す。


とあり、いわゆる現在にみる七草粥についての記載があります。
また、綵や金箔を人の形に剪り、屏風に貼ったり、紙に飾ったりしています。この人形は、いわゆる「水無月・夏越祓で無病息災」で夏越祓神事でも紹介し、京都の冷泉家でも似たような風習が紹介されていましたが、身の穢れや厄を人形にうつして祓うのに用いられています。
流し雛を想像すると、良いかもしれません。

7日の七種菜羹は、それを食べれば万病にかからないといわれ、疾病を払うものとして食べられました。
このあたりは、「重陽の節供」や「端午の節供」で紹介したように、その季節の薬草を摂取することで無病息災を願う、他の節供行事と同様です。



また、『董問礼俗』によると、1日の元日から7日までを、

1日=鶏
2日=狗
3日=羊
4日=猪
5日=牛
6日=馬
7日=人

とし、それぞれの日に占い、その動物を殺さないようにしたり、天候などでその年の運勢を占うなどをしたとあります。
1月7日を「人日の節供」というのは、このためです。





このような節供とは別に、やはり、年のはじまりである元日は、大きな節目として重要視されていました。



元日には朝賀の儀など政治的に重要な行事があります。
現在、元日の朝には雑煮を食べますが、正月と餅の風習は平安時代にも見られます。

『紫式部日記』には、

正月一日、坎日(かんにち)なりければ、若宮の御戴餅(いただきもちひ)のこと停まりぬ。
三日ぞまうのぼらせ給ふ。


餅は、もち米・麦粉などを合わせて作ったもので、今の餅とは少し異なります。
餅は、神仏に供えたり、祝い事の際に用いられるもので、年中行事にはよく見られるものですが、ここでは「御戴餅」が供せられています。
ただ、現在の雑煮のように、神の供えた餅を元日に食べるという風習は、江戸時代になってからです。

なお、元日から3日は、「歯固 (はがため)」といい、長寿を願って天皇に押し鮎、大根、瓜、猪宍、鹿宍などの食べ物を供する儀式があります。



『紫式部日記』に描かれた正月のようすを、もう少し見ていきましょう。

ことし正月三日まで、宮たちの、御戴餅(いただきもちひ)に、日々にまうのぼらせ給ふ。
御供に、みな上臈もまゐる。左衞門の督いだい奉り給ひて、殿、はとりつぎて、うへに奉らせ給ふ。 二間(ふたま)のひんがしの戸にむかひて、うへの戴かせ奉らせ給ふなり。おりのぼらせ給ふ儀式、見ものなり。大宮はのぼらせ給はず。

ことしの朔日、御まかなひ宰相の君、例の物の色あひなどことに、いとをかし。
藏人は内匠兵庫つかうまつる。髮上げたるかたちなどこそ、御まかなひはいとことに見え給へ、わりなしや、くすりの女官にて、文屋の博士さかしだちさいらきゐたり。たう薬くばれる、例のことどもなり。

二日、宮の大饗はとまりて、臨時客、ひんがしおもてとりはらひて、例のごとしたり。
上達部は、伝の大納言 右大将 中宮の大夫 四条の大納言 権中納言 侍従の中納言 左衞門の督 有国の宰相 大藏卿 左兵衞の督 源宰相むかひつつゐ給へり。
源中納言 左兵衞の督 左右の宰相の中将は、長押のしもに、殿上人の座の上につき給へり。若宮いだきいで奉り給ひて、例のことどもいはせ奉り、うつくしみきこえさせ給ふ。うへに「いと宮いだき奉らむ」と、殿のたまふを、いとねたきことにし給ひて、「ああ」とさいなむを、うつくしがりきこえ給ひて、申し給へば、右大将など興じきこえ給ふ。



元日は朝賀の儀、2日は、朝覲行幸といい、天皇が上皇や母后に年賀のために行幸する儀があります。
また、2日は、上記の『紫式部日記』にも「宮の大饗」とありますが、これは「二宮大饗」といい、太皇太后、皇太后、皇后、中宮などと東宮とで、群臣を召して宴を催す儀式があります。
一方、大臣が行うものを大臣大饗といい、『栄花物語』の枇杷殿大饗などが有名かもしれません。


『枕草子』に描かれた正月行事も見ていきましょう。

正月。
一日はまいて。空のけしきもうらうらと、めづらしう霞こめたるに、世にありとある人はみな、姿かたち心ことに繕ひ、君をも我をも祝ひなどしたるさま、ことにをかし。
(第3段)


元日は、人々が着飾って、新年のお祝いの挨拶の述べ合う姿が素敵だとあります。

七日。雪間の若菜摘み、青やかにて、例はさしもさるもの、目近からぬところに、持て騒ぎたるこそ、をかしけれ。
(第3段)


いわゆる若菜摘みの風習です。
このときはまだ若菜を摘むだけで、特に現在ような七草粥の風習になっているのではなく、若菜摘みを行い、そこで宴を開いたりしています。
ただ、若菜摘みの風習は、そこで若菜を摘んだ乙女たちが、若菜を羹にして食することも行われており、これは中国や、奈良時代の文献にも確認できます。
上に引用した、七草の羹もそうです。

七草の種類は、まだこのときは確定していません。
また、正月の子の日に行われ、7日に行うものとは決まっていなかったともいわれます。

『枕草子』には、みんなでにぎやかに若菜を摘んでいるようすが描かれています。

同じく7日には、白馬節会、8日には女叙位・女王祿があることが続きます。

十五日。節供まゐり据ゑ、の木ひき隠して、家の御たち・女房などの、うかがふを、「打たれじ」と用意して、常にうしろを心づかひしたるけしきも、いとをかしきに、いかにしたるにかあらむ、うちあてたるは、いみじう興ありて、うち笑ひたるは、いとはえばえし。「ねたし」と思ひたるも、ことわりなり。
(第3段)


15日に、望粥の膳が出ます。
「望」とは15日のこと。
陰暦十五夜の月のことを「望月」と呼びますが、その「望」です。

現在の感覚から言うと、こちらが、七草粥の風習でしょうか。
といっても、これは七草ではなく、米、粟、黍子(きび)、ひえ、みの、胡麻、小豆の7種で作った粥ということで、また別のものですが。

災禍を免れる願いをこめて粥をいただきます。
また、この粥を炊いた木で、子のない婦人のお尻を打てば、子宝に恵まれると言われていたため、その木を隠し持ち、誰のお尻を叩こうかと狙っている女房の姿が描かれています。




お正月の行事はいろいろありますが、このような行事や宴などで供された節供料理が、やがて江戸時代の町人文化が花開くとともに民衆に浸透していったわけです。
節供は、年の節目ごとに行われていますが、民衆に広がる過程で、この正月の料理だけを「お節供料理」=「おせち料理」と指すようになりました。


庶民の間で広がりをみせた「おせち料理」ですので、その土地や時代によって、多種多様な食文化を形成しています。



おせち料理は、五穀豊穣、子孫繁栄を願い、また家族の安全と健康への祈りを込めて、海の幸、山の幸を豊かに盛り込んだものです。

食材は、黒豆、数の子、田作り、昆布巻、かちぐり、鯛、橙、錦たまご、金平ごぼう、里芋、紅白なます、紅白かまぼこ、栗金団、伊達巻き、菊花かぶ、小肌粟漬、えび、お多福豆などがあります。
それぞれのいわれなどは、以前に「無病息災・年末年始の行事」で少し触れているので省略します。

食材にも地域によって差があり、関東では伊達巻が主流ですが、関西ではだし巻き玉子を入れるところもあるようです。

このあたりは、雑煮と同じです。
すまし仕立てなのか、味噌仕立てなのか、餅は丸いか四角いか、餅は焼くのか煮るのか・・・など、地域の食文化と密接に関わってくるもので、非常におもしろいところです。


おせち料理の食材は、縁起の良い食材であったり、食材の形や名前の語呂合わせで縁起をかついだりするなど、なかなかユーモアあふれる町人文化を垣間見ることができます。




おせちは五段重が基本形です。

一の重=祝い肴(黒豆、数の子、ごまめなど)
二の重=酢の物(きんとんやかまぼこなど)
三の重=焼き物(海の幸など)
与の重=煮物(山の幸など)
※四は忌み数字なので使用しない
五の重=控えの重(中身なし)

奇数を陽数として認識していることから、五段重となっていますが、五の重を省略して四段重を正式とする地域もあります。
五の重に何も入れないのは、現在が満杯の状態ではなく将来さらに繁栄し、富が増える余地があることを示しているとも言われます。


現在では、核家族化の影響で、三段重が一般的かもしれません。
五段重の重箱というのもなかなか見かけませんし。

三段重の場合は、

一の重=祝い肴・口取り
二の重=焼き物・酢の物
三の重=煮物

となります。
とはいえ、それぞれの土地や家庭によってお重の段も中身もさまざまです。

中身でいえば、洋風や中華風のおせち料理を作る方も多いのではないでしょうか。
昔は、年神さまを迎えている間は煮炊きを慎んだり、家の中でもっとも怖くて重要なカマドの神様のために、火をつかわないようにすることから、おせち料理は保存の利くものが多かったのですが、最近では冷蔵庫もありますし、生ものを入れる場合もあると思います。

特に最近の注文用のおせち料理はバリエーションがかなり豊かになっていますので、参考になります。
冒頭のおせち料理などはスタンダードなタイプでしょうか。
こちらは、おせち料理の予約からどうぞ。
特に洋風や中華風、肉系のものは豊富だと感心します。

お正月=パーティー的なイベントとして、オードブルも豊富になりました。






ちなみに我が家では、五段重です。


お正月の準備は、家族総出で毎年行っています。
お餅づくりの際に、祖母たちとお餅を丸めていたことが1番古い記憶でしょうか。
年中行事などは、お手伝いを通して覚えていくものだと実感します。


また、五段重の他に、大皿の鉢盛料理を作ります。
これも晴れの日の料理です。
私の住んでいる地域ではまず見かけない風習ですが、お重にはない華やかさが年始のよろこびを演出してくれます。

さわち料理といえば、高知の「皿鉢料理」を思い浮かべるかもしれませんが、「鉢盛料理」は一種類の料理を一皿に盛るという古い形態のもので、高知の「皿鉢料理」とは大きく異なります。
皿は2尺(約60センチ)のものと、1尺2寸(約36センチ)のものを使用。
そこに刺身などを豪華に盛り付けます。

もちろん、家族が多いときなどはもっと数を増やしますが、今は家族も少ないので、これだけです。
といっても、これでも、現在の家族数から考えて、量はかなり多いです。
本当はこの4分の1くらいが妥当ではないのかとも思えますし、だいたい毎年おすそ分けしているのが現状。
このときの料理で、七草粥の日までは充分過ごせてしまっています。


量や種類を減らせばいいのかもしれませんが、しかし、やはり本来そこにあるべきものがないというのは違和感がありますし、年中行事を守り、続けていくというスタンスもあって、大晦日は家族総出で料理にいそしみます。

野菜の皮むきとお重などの盛り付けは主に子供の役目。
料理ができるようになってからは、自分の好きなものを作って、入れたりするようになりました。時には、本来、空であるべき五の重に入れたりしていました。
いわば、五の重は、子供専用お重だったと勝手に認識しています。





このように、地域や家によって異なるおせち料理ですが、無病息災と子孫繁栄を願う行事であることには変わりありません。

神事は、神に供えたものを下げて、みんなでそれを食べる神人共食の直会(なおらい)の儀をもって終わりとなります。
正月のおせち料理は、この直会の儀です。
正月の際に、両端が細く丸くなった祝い箸「柳箸」を使いますが、これは、自分が使っている別の一方(箸を持っている手の上の方)で神がその料理を共に食べていることを示しているわけです。


お正月行事やおせち料理は、それぞれの家の特徴が出ている、とても楽しい行事だと思います。
伝統にのっとって、というよりも、家族が集り、新年を祝って共に「おせち料理」と食べることが、1番大切なことではないでしょうか。







ちなみに、どうしても食べたくて、五の重に入れたものベスト3は、以下のとおり。

1位 伊達巻
2位 ハンバーグ
3位 海老のチリソース煮



江戸時代のお正月風景については、また別の機会に。


タグ:おせち料理

中秋の名月・月と収穫祭 [民俗・行事]

陰暦の8月15日を「十五夜」「中秋の名月」といいます。


「中秋」とは、陰暦8月15日をさし、この日が陰暦の秋である7・8・9月のちょうど真ん中にあたることから、「中秋の名月」とはその時期に出る月(満月)のことをさします。
一方、「仲秋」と書くと、陰暦8月のことをさします。

陰暦での四季は、1~3月が春、4~6月が夏、7~9月が秋、10~12月が冬。
その季節の3ヶ月を、それぞれ孟・仲・季と分けるため、8月は「秋」の季節の「仲」ということで、「仲秋」となるわけです。


中秋に月を愛でる風習は、中国の「中秋節」に由来します。

八月十五日、中秋節と為す。
各家皆、月餅・酒醴(甘酒)をもって、福神を祀り、並びに祖先を祀る。
(「風俗志」)


中国のお菓子・月餅は、月見の際に食べるお菓子です。
「風俗志」には、月餅をつくり、「骰子」(サイコロ)6枚を4~5回振り、兆しを見るなどの様子が描かれ、また、福神を祀るにあたり演劇をもって行うことや、歌をうたうことなどが記されています。




このような月に祈りを捧げる観月の風習は、月の神への祭祀でした。



中国の月の神は、常娥(じょうが)という美しい女神。

ゲイという勇士の神の妻となって地上で暮らしていたが、ゲイはあるとき、世界の西の果てにある崑崙山に行き、そこに住む西王母から不死の薬をもらってきた。
しかし、常娥がその薬を盗んで月に逃げたために、人間は不死になることができず、常娥はその悪事の報いで醜いヒキガエルになって、月に住んでいるという。


月面の影になっているのは、そのヒキガエルの姿だといわれます。
カエルは脱皮をしますから、生と再生のシンボルとして不老不死のイメージを付与されたのでしょう。

月と不死との関係は、『竹取物語』などにも影響を与えていますが、この不死の薬を持っている月の女神・常娥は、やがて地母神と混同されていきます。
縄文時代にはすでにその傾向が見られており、このことから、やがて中国の女神の代表である西王母と月の結びつきが強くなってきます。

月にはウサギが住んでいるといわれますが、これは西王母が従えているウサギ(玉兎)から来たものと考えられます。
西王母は、かつては疫病や刑罰をつかさどる女神でしたが、常娥で見られたような不老不死の薬や桃をもつ神として変化しました(「淮南子」)。


西王母が月と結びついたのは、「太陽」「男」「東」を「陽」、「月」「女」「西」を「陰」として、それぞれの方角にある高い山に住まう神に振り分けた陰陽思想と結びついてもいるようです。




また月の月の満ち欠けの反復は、死と再生の観念を結びつき、生命の源泉、豊穣多産のシンボルともなります。


月に祈りを捧げることは、自らの長寿と家の繁栄、豊穣を願ってのことだということがここから窺えます。






この中国の風習が遣唐使によって日本に伝えられると、神仙思想への憧憬と、中国風の宴が積極的に導入され、平安時代には「月見の宴」が盛んに行われるようになりました。



とはいえ、日本に月の信仰がなかったわけではありません。
日本の月の神・月読尊もまた、不老不死と結びついた神です。

天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月読(つくよみ)の 持てる変若水(をちみづ) い取り来て 君に奉りて 変若得しむもの
(『万葉集』13-3245)


「変若水」とは若返りの水のことで、天からの通路がもっと高ければ、月神の持っている変若水を取ってきて、あなたを若返らせてあげるのに、という嘆きです。


日本にも、このように月の満ち欠けから不老不死、果てには死と再生の観念から豊穣のイメージが芽生えていることが窺え、宮中の風流な月見の宴から、秋の収穫祭と結びつくのに、さほど困難はなかったのではないでしょうか。
また、農作物の時期をはかるのに太陽と月の動きを読むことは重要でしたし、欠けたところの無い満月は、豊穣の象徴でもあったそうです。



近世になり、月見が収穫祭が結びつき、庶民層にも農作物を月に供えて名月を楽しむ行事が定着し、陰暦の8月15日の十五夜のほか、陰暦9月13日の十三夜の風習も生まれました。



近世の『大和耕作絵抄』に

こよひの月をもて遊ぶ事、唐の世より盛んなり。
我が朝にも、あまねく歌をよみ詩をつくり、代々のながめつきず。名にたてる月なれば名月といふとかや。十五日は月と日と、ひがしにしに相望むゆゑに望月(ぼうげつ・もちづき)とも申すとなり。
(中略)
十四日の月を待宵(まつよひ)とゆふ。
また十六夜といふて、世にもてはやすはこの月なり。


と月見が盛んであったことが窺えます。




十五夜は別名「芋名月」と呼ばれます。
それは、脱皮から死と生成のシンボルとなったように、皮をむく芋も豊穣のシンボルとなったこと、また、芋は稲作以前の主食であったこともあり、農作物の代表として目されていたようです。
9月は、芋の収穫期でもあります。

収穫したばかりの収穫物を神に捧げ感謝することは、早稲田の稲が初穂として初嘗祭に用いられたように(『万葉集』)、収穫儀礼としての一面も持っていました。





この、芋を月見の際に捧げる、芋の収穫祭であるということもまた、中国をルーツにするという見方があります。

お月見をしようでは、月見行事のルーツが不明であることを述べた上で、

最近の研究によると、中国各地では月見の日にサトイモを食べることから、もともとはサトイモの収穫祭であったという説が有力となっています。
その後、中国で宮廷行事としても行われるようになり、それが日本に入ったのは奈良~平安時代頃のようです。


と、紹介しています。


中秋が芋の収穫祭であったことは、確かに文献の上でも確認できます。

中秋の時期になると、その土地の神を祭り、町や村では演劇が行われており、いわゆる秋の収穫祭であることが書いてあります。
具体的にはどのような状況であったかというと、

夜に月餅、芋魁を薦め、神及び先祖を祀る。
(廈門志「風俗記」)


また、この夜には「聴香」といって、婦人達が香を壁の間にかけて占ったりすることが記されています。

つまり、中秋の時期に、月餅と芋を神や先祖に捧げる風習があることが窺えます。
「中秋の名月」が「芋名月」と呼ばれる所以である、この芋の収穫祭のルーツについては、大陸の影響と断定する前に、東アジア世界において、芋の栽培がいつから行われてきたのか、ということを明確にしなければならないでしょう。


芋食の習慣は、『史記』にもありますが、いわゆる「唐芋」(サトイモの一品種)は、紀元前には品種として成立していることが明らかとなっています。
『栽培植物の自然史』によると、唐芋などの芋類の品種は、中国で分化・発達した後、日本に伝わったとありますから(サトイモは江戸時代中期以降に伝来)、中国での芋の収穫祭が、月見の時期に行われていたことが起源というのは、ある意味、的を射た説です。


ただ、農耕社会において、はじめての収穫物を神に捧げるという風習は、世界各地で見られるものですが。






現在では、丸い月見団子とススキを伴えるのが一般的です。



ススキは、秋の七草のひとつ(尾花)です。
高さが1.5mにも達する大型の多年草で、屋根葺きにつかったことから「カヤ」とも呼ばれ、人びとの生活に密着した植物ですが、同じイネ科のチガヤと同様に、薬効があります。
利尿・解毒・風邪・高血圧などです。

また、このことからススキには呪術力をもつと見られています。
沖縄などで行われるシバサシは、時間と空間を守るための魔除けと考えられており、秋の景物であると同時に、ススキに対する霊力が、月見の際に用いられる要因でしょう。




団子を供える理由は、『東都遊覧年中行事』に中国からの風習とあります。
つまり、中秋節に月餅を食べる風習が、日本に入り、団子を食べるようになったということです。

近世の月見団子は今よりも大きかったようで、

お月様へ供へる団子は、径二寸位にて十五個、九月は十三個


2寸位というので、だいたい直径6~7㎝の団子を、十五夜の際には15個、十三夜には13個用意していたことがわかります。



十三夜は、十五夜に対して「後の月(あとのつき、のちのつき)」ともいわれますが、十五夜が中国から伝わったものであるのに対し、十三夜は日本独特の風習です。
食べごろの豆や栗をお供えするので、十五夜の芋名月に対して「豆名月」「栗名月」ともいわれます






月見の風習は、中国から伝わってきた儀礼に日本の習俗が交じり合い、近世以降、庶民の力によって現在の形に整えられてきたものと考えられます。

「月見」の名称は日本のもので、中国では「観月」となります。




ちなみに、団子の並べ方は、地域によって異なるようです。
個人的にはどちらかというと、「月より団子」的なところがありますが、直径6~7㎝の団子は、食べるのも大変そう。

江戸時代には、団子汁にしていたようですが、できれば、そのままきな粉でいただきたいものです。



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水無月・夏越祓で無病息災 [年中行事]

水無月・甘春堂本店.jpg
[引用]甘春堂本店


6月30日は、水無月を食べる日です。


6月になるとお店に並び始めるこの和菓子。
少し早めでしたが、先日、いただきました。季節ものですし、水無月を食べると夏を実感します。


水無月は、白の外郎生地に小豆をのせ、三角形に切った菓子です。
最近は黒砂糖入りの黒い水無月や、抹茶入りの緑の水無月がありますが、やはり見た目にも涼しげなプレーンタイプが好みです。


6月に水無月を食べる習慣は、京都を中心とした関西圏にしかないようですが、最近では少しずつ広まっているようです。




「水無月」は、6月のこと。


 1月=睦月(むつき)
 2月=如月(きさらぎ)
 3月=弥生(やよい)
 4月=卯月(うづき)
 5月=皐月(さつき)
 6月=水無月(みなづき)
 7月=文月(ふづき)
 8月=葉月(はづき)
 9月=長月(ながつき)
10月=神無月(かんなづき)
11月=霜月(しもつき)
12月=師走(しわす)


陰暦(旧暦)の異称として以上のような名称があります。

水無月は、新暦では7月。
梅雨明けはだいたい7月上旬なので、この時期は比較的雨の多い季節です。なので、この時期を「水無月」すなわち「水の無い月」と呼ぶには疑問がありますが、そもそも、「みなづき」の「な」は、「無」の字を当てているだけで、もとは所有格を表す後置詞「の」です。
つまり、「水の月」になります。


雨のある月なので、「水の月」

ぴったりのネーミングです。



このことは、10月の「神無月」も同様で、もとは「神の月」。
10月には全国の神が出雲大社に行って、地元には神がいなくなることから「神無月」といい、一方、出雲では神が集まることから「神有月(かみありづき)」という話は、「な」が、当て字の「無」の意味で定着してしまったことからくるものです。

けれど、言葉は生きていますから、こういうユーモアのある言い方は好きですね。






それはともかく。


京都では1年のちょうど折り返しにあたる6月30日に、「夏越祓(なごしのはらえ)」が行なわれます。

夏越祓神事は「水無月の祓い」ともいい、半年の罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈願する神事です。
この日、神社の鳥居の下や境内には茅(ちがや)で作られた大きな輪が用意されます。
参拝者は、神社に設けられたその茅の輪を3回くぐりますが、その際に、手に小さな茅の輪を持ったり、くぐり方にも作法があるので、神社の方に聞くといいですね。


穢れを祓う清める方法として、紙の人形(ひとがた)を作って自分の分身とし、体を撫で、息を吹きかけて罪や穢れを移して、神社に納めたり、海や川に流したり水盤に張った水に投じます。

京都・上賀茂神社では、神事の後に何千体もの紙の人形を手で一体ずつ楢の小川に流して穢れを祓う「人形流し」が行われています。




茅の輪をくぐる神事の由来は、『風土記』逸文の「蘇民将来」にあります。

備後の国の風土記に曰はく、疫隅(えのくま)の国社。昔、北の海に坐しし武塔(むとう)の神、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。その所に将来(しょうらい)二人ありき。
兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は甚く貧窮(まづ)しく、弟の将来は富饒みて、屋倉一百ありき。 ここに、武塔の神、宿処を借りたまふに、惜みて借さず、兄の蘇民将来、借し奉りき。即ち、粟柄(あはがら)を以ちて座(みまし)と為し、粟飯等を以ちて饗(みあ)へ奉りき。
ここに畢(を)へて出でませる後に、年を経て、八柱のみ子を率て還り来て詔りたまひしく、「我、将来に報答(むくひ)せむ。汝が子孫其の家にありや」と問ひたまひき。蘇民将来、答へて申ししく、「己が女子と斯(こ)の婦(め)と侍(さもら)ふ」と申しき。即ち詔りたまひしく、「茅の輪を以ちて、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。
詔の隨に着けしむるに、即夜に蘇民の女子一人を置きて、皆悉にころしほろぼしてき。即ち、詔りたまひしく、「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。


蘇民将来と将来の兄弟のもとに、スサノヲが身をやつして宿を乞いに来る。
裕福な弟・将来はそれを断り、貧しい兄・蘇民将来は宿を供して、スサノヲの教えを受ける。その教えに従い、腰に茅の輪を下げたところ、子孫代々に至るまで災いなく栄えたという。




この夏越祓神事のときに食べるのが、「水無月」です。


水無月は、氷室(ひむろ)の氷をかたどったもの。
氷室は、夏の暑さをしのぐために、冬の間にできた氷を夏まで貯蔵した穴蔵ことで、『日本書紀』にすでに登場します。

時に皇子、山の上より望りて、野の中を瞻(み)たまふに、物有り。其の形廬(いほ)の如し。乃ち使者を遣して視しむ。還り来て曰さく、「窟(むろ)なり」とまうす。
因りて鬪鷄稻置(つけのいなき)大山主を喚して、問ひて曰はく、「其の野の中に有るは、何のむろぞ」とのたまふ。啓して曰さく、「氷室なり」とまうす。
皇子の曰はく、「其の蔵めたるさま如何に。亦奚(なに)にか用ふ」とのたまふ。曰さく、「土を掘ること丈余。草を以て其の上に蓋く。敦く茅荻(ちすき)を敷きて、氷を取りて其の上に置く。既に夏月を経るにきえず。其の用ふこと、即ち熱き月に当りて、水酒に漬して用ふ」とまうす。
皇子、則ち其の氷を将(も)て来りて、御所に献る。
天皇、歓びたまふ。是より以後、季冬(しはす)に当る毎に、必ず氷を蔵む。春分(きさらぎ)に至りて、始めて氷を散る。
(『日本書紀』仁徳天皇62年5月条)


毎年6月1日には「氷の節供」として、氷室から運び出した氷を神に捧げ、その一片を口にして邪気を祓う行事が行われていました。



夏に氷で涼をとるようすは、『枕草子』にも見えます。

あてなるもの 薄色に白襲の汗衫(かざみ)。かりのこ。削り氷にあまづら入れて、あたらしき金鋺に入れたる
水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪のふりかかりたる。いみじううつくしきちごの、いちごなどくひたる。
(『枕草子』第42段)


いみじう暑き昼中に、いかなるわざをせんと、扇の風もぬるし、氷水に手をひたし、もてさわぐほどに、こちたう赤き薄様を、唐撫子のいみじう咲きたるに結びつけて、とり入れたるこそ、書きつらんほどの暑さ、心ざしのほど浅からずおしはかられて、かつ使ひつるだにあかずおぼゆる扇もうち置かれぬれ。
(『枕草子』第192段)


また、『源氏物語』蜻蛉巻にも、夏の暑い日、氷をもってはしゃぐ人々の姿が描かれています。

を、物の蓋に置きて割るとて、もて騒ぐ人々、大人三人ばかり、童と居たり。
唐衣ども、汗衫も着ず、皆、うち解けたれば、御前とは、見給はぬに、白き羅の御衣、着給へる人の、手に氷を持ちながら、かく争ふを、少し笑み給へる御顔、いはん方なく、美しげなり。いと、暑さの堪へ難き日なれば、こちたき御髮の、苦しう思さるるにやあらん。


氷室の氷はとても貴重なもので、氷を口にすると夏痩せしないとも信じられ、臣下にも氷片が振舞われたようですが、庶民にとっては手の届かない代物。
そのため、氷をかたどった「水無月」が作られるようになったわけです。


水無月は、氷室の氷をかたどった三角形の形に、邪気を祓うとされる小豆がのせたものです。
小豆はまた、氷室から切り出された氷についた砂粒を表しているともいわれます。



京都の夏をどう過ごすかは、大きなポイント。
暑くなければ夏ではなく、特に祇園祭は暑くなければ始まらないわけですが、京都の暑さは尋常ではありません。

それは平安期も同じで、『源氏物語』常夏巻には、暑さをやわらげるための工夫が見られます。
氷水でつくった「水飯」を食べたり、池に張り出した釣殿で、視覚的にも涼を得ていました。

いと暑き日、ひむがしの釣殿に出で給ひて、すずみ給ふ。中将の君も、さぶらひ給ふ。したしき殿上人、あまたさぶらひて、西河よりたてまつれる鮎、ちかき河のいしぶしやうのもの、御前にて調じ、まゐらす。例の、大殿のきむだち、中将の御あたり訪ねて、まゐり給へり。
「さうざうしく、ねぶたかりつる、をりよく物し給へるかな」とて、大御酒まゐり、氷水召して、水飯など、とりどりに、さうどきつつ食ふ。
風は、いとよく吹けども、日のどかに、曇りなき空の、西日になる程、蝉の声なども、いと、くるしげに聞ゆれば、「水のうへ無徳なる、今日の暑かはしさかな。無礼の罪は、許されなむや」とて、より臥し給へり。
「いと、かかる頃は、遊びなどもすさまじく、さすがに暮らしがたきこそ、くるしけれ。宮づかへする若き人々、たへがたからむ。直衣、ひもとかぬほどよ。ここにてだに、うち乱れ、このごろ、世にあらむことの、すこし珍しく、ねぶたさ醒めぬべからむ、語りて聞かせ給へ。なにとなく、翁びたる心ちして、世間の事も、おぼつかなしや」など、のたまへど、「めづらしきこと」とて、うち出で聞えむ物語もおぼえねば、かしこまりたるやうにて、みな、いと涼しき勾欄に、背中おしつつ、さぶらひ給ふ。
(『源氏物語』常夏巻)


光源氏は、この釣殿で夕涼みがてら、桂川の鮎や近くの川で獲れた「いしぶし」といった魚を前で調理させたり、高欄に背中をもたせかけて、池の上を吹いてくる風に涼をとっています。

とはいえ、やはり夏の暑さはすさまじく、物語にはしどけない格好の姫君たちが登場しますが、それもまた夏の風物詩です。





夏の暑さを乗り越えるための「水無月」。


和菓子で季節を味わうのもいいものですね。



子供の邪気祓い・端午の節供 [年中行事]

江戸砂子年中行事 端午之図.jpg
[引用]江戸砂子年中行事 端午之図


鯉のぼりの季節になりました。
旧暦の5月5日は、端午の節供。
ぷるんとしたもちもち粽が魅力的な時期です。
個人的には、プレーンタイプが好きです。


端午の節供は、五節供の1つ。
中国から伝わった行事です。

この日に、菖蒲(ショウブ)蓬(ヨモギ)を摘み、家や門に飾ったり、お風呂に菖蒲を浮かべて入る「菖蒲湯」の風習が残っています。

中国の『楚辞』「沈江」に、

よもぎなどの悪草を床に入れると、邪気を払う。


とあります。
原文は、ブログ上では字が正しく表示されないので引用しませんが、戦国時代から漢代にかけての時代には、匂いのある薬草によって、邪気を払うという風習があったことがわかります。

宋代の詩にはすでに端午の節供の模様が描かれています。

粽團桃柳、盈門共壘、把菖蒲、旋刻個人人。
(秦觀)


同じ「菖蒲」でも、ショウブはサトイモ科で、アヤメはアヤメ科の植物。
現在、端午の節供ではアヤメ科の「花菖蒲」を飾っていますが、本来はショウブです。
ショウブの精油には、鎮痛・血行促進・保湿効果、利尿効果や解毒作用があり、『神農本草経疏』では草部の上品として挙げられています。
菖蒲汁を酒にいれた「菖蒲酒」や湯にひたした「菖蒲湯」はこの薬効を期待したもので、アヤメにはこのような薬効はありません。
ビジュアル的にはアヤメの方が美しいですが、お間違いなく。

一方、ヨモギはキク科の多年草。
「蓬湯」にも血行促進作用があり、肩こりや腰痛、神経痛などに効果があります。

なお、これらには薬効成分があるので、妊娠中の方や体調のすぐれない方は、ご利用にあたっては医師の指示に従ってください。


ショウブの香りも独特ですが、ヨモギも同じです。
その独特の香りは邪気を払うものとして意識されてきました。

節供は旧暦なので、新暦になおすと、だいたい6月中旬。
今年は6月19日になります。
このころは、梅雨前もしくは梅雨に突入し、じめじめした気候で疫病も流行り、心身ともにストレスがたまり体も不調になりがちなので、この時期に神経の緊張をやわらげるこれらの薬草を使って邪気や厄病を遠ざけることは、理にかなっています。


端午の節供にいただく「粽(ちまき)」も、中国から入ってきたもの。

『芸文類聚』巻4には、5月5日の行事の由来として、『続斉諧記』の屈原のエピソードを載せています。
簡単に紹介すると。

屈原は5月5日に汨羅(べきら)の湖に身を投げて死んだ。
楚の人はこれを悲しみ、この日になると、竹筒に米を入れて湖に投げ入れてこれを祭った。
漢の建武の時、白日に忽然と一人の人物が現われた。その人物は三閭大夫と名乗り、君に告げるには、このように屈原を祭るのは善いことであるが、湖には蛟龍がいて、投げ入れた米をぬすんでしまう。
そこで、楝樹の葉で包んで五采の糸で縛り、これを蛟龍の分も加えて2つ投げ入れて祭れと。
これにより、人々は五色の糸と棟の葉で包んだ粽を作るようになった。


また、『風土記』には、5月5日に米を煮たものを「菰葉」でつつんだ「角黍」というものがありますが、この「角黍」は『本草綱目』に「粽心草」ともあることから、「粽」と節供の関係がここからも窺うことができます。


この風習は、『日本書紀』推古紀19年5月5日条に「薬猟」の記事が見えることからも、日本にはすでに奈良時代に伝わっていたことがわかりますが、平安時代にはほぼ現在と同じような形に整えられていることが確認できます。

『伊勢物語』52段には以下のように記されています。

むかし、おとこありけり。人のもとよりかざり粽をこせたりける返事に、
  あやめ刈り君は沼にぞまどひける我は野に出でてかるぞわびしき
とて、雉をなむやりける。


屈原の説話でも、粽は祭祀用のものですが、『伊勢物語』に見える「かざり粽」も食用ではないようです。
「かざり粽」は、洗ったもち米を葉で包み五色の糸で結んだもので、端午の節供に飾ったり贈り物とします。
ここでは「おとこ」が送った「かざり粽」の礼として、「雉」が送られています。

現在でいうと、京都の祇園祭の粽がわかりやすいかもしれません。
祇園祭の粽は、厄除けのもので、1年間家に飾っておき、1年後に八坂神社に返して焼いてもらいます。
神社に返せなかった場合は、家で焼いてもいいということですが、この辺りは神社の方にお聞きした方がいいでしょう。


祭祀用の「粽」にかわって登場してくるのが、「かしわ餅」です。
柏の葉で包んだ、さっぱりした味はいくらでもお腹に入りそうですね。

この柏に関しては、『本草綱目』巻5に、

栢葉上露、菖蒲上露並びに能く目を明かにするに旦旦としてこれを洗う。


とあることから、これまた薬草です。
しかも菖蒲と共に登場することが興味深いです。


なお、現在では、関東地方では「かしわ餅」で、関西地方では「ちまき」を食べるようです。




節供のようすを描いた作品をもう1つ紹介すると。

『枕草子』39段に、

節(せち)は五月にしく月はなし。菖蒲(さうぶ)・蓬(よもぎ)などのかをりあひたる、いみじうをかし。九重の御殿の上をはじめて、いひしらぬ民のすみかまで、いかでわがもとにしげく葺かんと葺きわたしたる、なほいとめづらし。いつかは、ことをりにさはしたりし。
空のけしき、くもりわたりたるに、中宮などには、縫殿より御薬玉とて、色々の糸を組み下げて参らせたれば、御帳たてたる母屋のはしらに、左右につけたり。


とあります。

『伊勢物語』の「かざり粽」と同様に、「薬玉」も節供には欠かせないもの。
元々、ショウブやヨモギなどの薬草を戸口に挿して邪気祓い・厄除けとしていたものが、やがて薬草を玉のように結び、五色の糸をたらしたものに変化していったわけです。

五色は、陰陽五行説にみられる、5つの色。
青・赤・黄・白・黒。

神事などにはよく見られます。
この五色は森羅万象をあらわしたもので、これにより安定と邪を祓う力を持つと考えられてきました。
鯉のぼりの1番上にたなびいている吹流しも、この五色になっているはずです。


江戸時代になると、菖蒲が「尚武」に通じることから「男の子の節供」として定着し、武運栄達、健やかな成長を願う行事として、鯉のぼりや鎧兜が登場してきます。

が、元来は、邪気祓い・厄除けです。


この辺りに神事や行事の変遷が見られて、おもしろいですね。


ちなみに、この時期の神事として有名なのが、京都・葵祭の前儀である、上賀茂神社の「競馬会神事(くらべうまえしんじ)」

欽明天皇の御代に飢餓疫病が流行したために、天皇が勅使をつかわして「鴨の神」の祭礼を行ったのが葵祭の起源とされています。
上賀茂、下鴨両神社は、京の都を護る神社で、上賀茂神社には、川上のいわゆる祟り神も祭られており、都を災厄から護るという役割が窺えます。
気になる方はチェックしてみてください。

葵祭では、牛車の牛を含め、関係者全員がアオイの葉をかざしています。
上賀茂神社の「競馬会神事」は、葵祭の無事を祈り奉納されるものですが、この時に馬につけられているのは、菖蒲


こういうところに、端午の節供との関連を見るのも楽しいですよ。


衣服の標章・姫君女君の見つけ方 [民俗・行事]

suzumushi.JPG

和装の婚礼衣装に、白無垢・打掛の他、最近では十二単も一般的になってきました。

皇室の影響ですね。

ブライダル関係者によると、秋篠宮妃、皇太子妃、黒田清子氏の婚礼の前後には、特にその需要が伸びたということで、当時はニュースなどでも取り上げられていました。

セルフプロデュースが主流になってきたブライダル業界において、和装派ユーザーが自らのビッグイベントに華やかな十二単を選ぶのも納得がいきます。
先日も某芸能人が着用したことで、ブライダル業界では十二単の需要がまた伸びるのでは?との見解も見られます。

[参照]ウェディングプランナーミュウの日記



十二単の華やかな衣装に、昔の姫君・女君は、こんなに重たい衣装をつけていたのか、と感じた方は多いと思います。
現代人の感覚では、

身分の高い人=いいものを着ている人

ですから。

しかし、平安時代の姫君・女君は、普段はもっと楽な服装をしていました。
今でも、正装と普段着があるように、平安時代の衣装は、大きく3つに分けることができます。

(1)正装
(2)ハレの衣装
(3)ケの衣装

現代風に直せば、

(1)イブニングドレス
(2)スーツ
(3)ジーパン

のようになるでしょうか。

いわゆる十二単は(2)にあたります。
十二単は俗称で、正式には、唐衣・裳を着用することから、「五衣唐衣裳(いつつぎぬ・からぎぬ・も)」といいます。
十二単の「十二」は、12枚重ね着したわけではなく、何枚も重ね着することからこの名称がつきました。寒いときには、12枚、いや、それ以上着込む例もあります。
とはいえ、平安末期から鎌倉時代には重ね着する袿を5枚までとする「五衣の制」が定められます。
よほど華美になってきたのでしょう。

具体的にどんなものを着るのかというと、よく知られていますが、次のような感じです。

・ 襪(しとうず)
・ 小袖(こそで)
・ 細帯
・ 袴
・ 単(ひとえ)
・ 袿(うちぎ)←「五衣」はこれ。数枚重ね着する。
・ 打衣(うちぎぬ)
・ 表衣(おもてぎぬ、「表着(うわぎ)」とも)
・ 裳(も)
・ 唐衣(からぎぬ)

「襪(しとうず)」は今でいう「足袋」ですが、40歳以上の方がはくものです。
ただし、相手が40歳以上(目上)の場合は、40歳以上でもはくことができません。


「袴」には、「濃袴」と「緋袴」があります。
前者は、特に濃い紅~濃蘇芳~紫系の色を指しますが、これも時代的な変遷があるようです。
「緋袴」は紅色ですので、それとは区別した赤紫系の色になるのですが、その区別も、実はあまりないようです。

有職故実を記した『筆の霊(ふでのみたま)』には、

雅亮装束抄に、紅のはかま、こきはかま、濃き張りばかまなど云り、今は俗にそれを官女と云者のみ著る者として緋の袴と云り


とあり、「緋袴」でまとめられています。
ただ、たいていの有職故実には「未婚者は濃色、既婚者は緋色(紅色)」で区別されています。
また、単に年齢によって区別したり(若=濃袴、大人=緋袴)、ハレ(濃袴)とケ(緋袴)で区別したりと、いろいろありますが、『源氏物語』などにはこの区別はあまり見られません。
平安・鎌倉時代にはまだしっかりと区別が確立していなかったようです。

最近では、十二単の袴も、動きやすさを重視した対丈の、卒業式でおなじみの「切り袴」をよく見かけますが、これは明治以後に女官の正装として定着しました。
が、やはり袴は「長袴」に限ります。


「表衣」に対して、「単」「袿」「打衣」は「内着(うちぎ)」と呼びます。


これらの十二単の総重量は20kgほど。
着付けは、仮ひも2本で行い、最後に裳の紐のみで固定されるので、苦しくありません。
ただ、下手な着付け方をされると、肩にすべての重みが加わり、肩がこります。



ちなみに、平安時代には、この面倒な装束の着付に対する「衣紋道(えもんどう)」が生まれます。
今でいうファッションコーディネーターの役割を担っていました。
また、鎌倉時代には、その「衣紋道」の家柄が登場します。
「高倉流」と「山科流」です。

衣紋道に関して説明すると、また長くなりそうなので、こちらを参照ください。
とてもよくまとまっています。

[参照]綺陽会


十二単の説明をもう少し続けると。

十二単の衿合わせもいろいろありまして、だいたい次の5通りです。

e01.gif
(A)点々前
すべて1つずつ合わせる。

e02.gif
(B)一つ衿合わせ
小袖以外、すべて1つに。

e03.gif
(C)単別一つ衿合わせ
単のみ点々前に、他は一つ衿。

e04.gif
(D)比翼衿合わせ1
単、五衣のみ一つ衿。

e05.gif
(E)比翼衿合わせ2
五衣を2、3に分けて一つ衿。
単は点々前。


現在の皇室は、(D)での着付です。
確認したところ、皇室の場合は、単も点々前でした。


なお、現在は、小袖の下に長襦袢を着るので、下にもう1枚衿が見えるはずです。



この十二単は、女房装束(にょうぼうしょうぞく)ともいい、宮廷や貴族の家の女房(侍女)が、主人の前に侍し、また客の応対をするときに着用するものです。
主人の前では、礼を欠かさぬよう、きちんとした格好をしなければならず、おのずと女房の制服のようになっていったわけです。


これに対し、

(1)正装
(2)ハレの衣装
(3)ケの衣装

の(1)正装は、この十二単の上に、「比礼(ひれ)」「裙帯(くたい)」をつけ、「額(ひたい)」と称する金属の飾り(宝冠)を頭につけ、さらに釵子(さいし=かんざしのようなもの)をつけ、公私の儀式に着用します。


これに対して、(3)ケの衣装は、日常の普段着。
主に小袿細長が着用されます。
女房たちは、後宮や貴族の家では、主人の前にいるときはハレの衣装を着用しなければなりませんので、このケの衣装になれるのは、自分の局にいるときか、実家に帰っているときです。
ですから、後宮や貴族の家で、このケの衣装を身に付けているのは、その家の姫君や女君たちとなるわけです。

衣装によって、その登場人物の身分が窺えることは、こちらでも触れていますね。


『源氏物語』は、現代人にとっては難解だと思われてきました。
それは、古典にありがちの、主語がわからない、ということからです。

そこで、『源氏物語』を理解するにはアーサー・ウェーリーの英訳版など、英語版を読むのが手っ取り早い、と言われた時期があります。

が、『源氏物語』を読むのに、いきなり英語版を読む日本人はあまりいません。
では、古典を原文で読むときに何に注意すればいいのか?
それは、敬語の表現をみて、主語が誰か読み取るわけです。
A・Bという2人の人物がいて話をしていたとします。
AがBに敬語を使っていれば、Bの方が身分が上というわけです。

また、『源氏物語』では、女性に対する表現に気をつけるのもポイントです。
たとえば、それまで「姫君」と称されていた若紫が、次のシーンでは「女君」と称された場合、若紫と源氏の君の間に男女の関係があったことがわかります。
『源氏物語』には、こういう表現で、微妙な関係を描くことがよく見られます。
気になる方は、1度、専門書をご覧になるといいかもしれません。

ちなみに、よくダイジェスト版やHOW TO本、源氏関係のサイトなどで見られる間違いが、桐壺帝の中宮で、源氏の君の継母である「藤壺」の表記。
「藤壺の女御」と書かれていることがたまにあります。

「女御」とは摂関家の娘などを示すものであり、先の帝の皇女である藤壺は、「女御」とは称しません。
『源氏物語』では、「藤壺の女御」という人物が出てきますが、これは別の人。
物語にも、源氏の君の継母である藤壺に対しては、「妃の宮」と記されることはあっても、「女御」とは記されていません。

その後、「女御」という称も時代にしたがい若干変化しますが、『源氏物語』ではこのようになっています。



少し脱線しました。



つまり、その人物の衣装をみることによって、身分もある程度わかるわけです。

たとえば。

『源氏物語絵巻』の「鈴虫・一」に描かれた左の女性は、従来、女三の宮と考えられてきました。
冒頭の画像が、その絵巻の個所です。
部屋にいる女性が、女三の宮で、外に立っている質素な衣装の女性は女房だと考えられてきたわけです。

しかし、修復が進むにしたがって、左の女性の衣装に裳が描かれていることがわかったのです。

suzumushi2.JPG
↑の真ん中あたりに、白っぽい帯のような紐のようなものが確認できると思いますが、これが裳です。
裳をつけている女性が、女三の宮であるはずがありません。

つまり、この女性は女三の宮の身のまわりの世話をする女房であり、右手に立っていた、白っぽいラフな衣装をまとった女性こそが女三の宮だと判明したのです。




ただ、小袿は完全なる普段着、つまりリラックスウェアーというわけではなく、やはり多少は礼儀を正したものです。


『源氏物語』若菜上巻の、柏木が女三の宮の姿を垣間見する場面。

几帳のきは、すこし入りたる程に、袿姿にて立ち給へる人あり。階より西の二の間の東のそばなれば、まぎれ所もなく、あらはに見入れらる。紅梅にやあらん、濃き、薄き、すぎすぎに、あまた重なりたるけぢめ、花やかに、草子のつまのやうに見えて、桜の、織物の細長なるべし。


猫のいたずらで御簾が上がり、その几帳の少し奥のところに、蹴鞠をする公達を見つめる女三の宮が立っています。
「袿姿」ということから、この女性が女三の宮であることがわかりますが、蹴鞠を見学するのに、まったくの普段着というわけではさすがにないでしょう。


また、若菜下巻の、六条院での女楽の場面を見てみましょう。

宮の御方を、のぞき給へれば、人よりけに小さく、うつくしげにて、ただ、御衣(ぞ)のみある心ちす。匂やかなる方はおくれて、ただ、いとあてやかに、をかしく、二月の中十日許の青柳の、わづかにしだり始めたらん心地して、鴬の羽風にも乱れぬべく、あえかに見え給ふ。
桜の細長(ほそなが)に、御髪(おぐし)は、左・右よりこぼれかかりて、柳の糸のさましたり。「これこそは、限りなき人の御有様なめれ」と見ゆるに、女御の君は、おなじやうなる御なまめき姿の、いま少し匂ひくははりて、もてなし・けはひ、心にくく、よしあるさまし給ひて、よく咲きこぼれたる藤の花の、夏にかかりて、かたはらに並ぶ花なき朝ぼらけの心ちぞ、し給へる。さるは、いと、ふくらかになるほどになり給ひて、悩ましくおぼえ給ひければ、御琴もおしやりて、脇息におしかかり給へり。
ささやかに、なよびかかり給へるに、御脇息は、例の程なれば、およびたる心ちして、「殊更に、小さくつくらばや」とみゆるぞ、いと、あはれげにおはしける。紅梅の御衣に、御髪のかかり、はらはらと清らにて、ほかげの御姿、世になくうつくしげなるに、紫の上は、葡萄染にやあらむ、色濃き小袿(こうちぎ)、薄蘇芳の細長に、御髪のたまれるほど、こちたくゆるるかに、大きさなどよきほどに、やうだいあらまほしく、あたりに、匂ひ満ちたる心ちして、花といはば、桜にたとへても。なほ、ものよりすぐれたるけはひ、殊に物し給ふ。
かかる御あたりに、明石は、けおさるべきを、いと、さしもあらず、もてなしなど、気色ばみ恥づかしく、心の底ゆかしきさまして、そこはかとなく、あてになまめかしく見ゆ。
柳の、織物の細長、萌葱にやあらむ、小袿きて、うすものののはかなげなる、ひきかけて、ことさら卑下したれど、けはひ・思ひなしも、心にくく、あなづらはしからず。高麗(こま)の青地の錦の、はしさしたるしとねに、まほにも居で、琵琶をうち置きて、ただ、けしき許りひきかけて、たをやかに使ひなしたる撥(ばち)のもてなし、音(ね)を聞くよりも、又ありがたく、なつかしくて、「五月待つ花たち花」の、花も実も具(ぐ)して、おし折れる香りおぼゆ。


「宮の御方」とは、女三の宮です。
琴の琴を担当。
桜の色の細長を着用。

「女御」は、源氏と明石の上の娘、そして紫の上の養女となった明石の女御。
箏の琴を担当。
紅梅の上着を着用。

紫の上は、和琴を担当。
紅紫かと思われる濃い色の小袿に、薄蘇芳の細長を重ねています。

明石の上は、琵琶を担当。
柳の色の厚織物の細長に下へ萌葱かと思われる小袿を着て、薄物の簡単な裳を着用。


なお、「院」は源氏の君です。


明石の女御は、現在妊娠中のため、あまり詳しい記述がありませんが、残る3人の衣装を見てみると、だいたい「小袿」「細長」を着用。
身分は、上から、女三の宮→明石の女御→紫の上→明石の上となります。
1番身分の低い明石の上は、明石の女御のお世話係りもしていることから、自ら女房の格を示すために裳を着用しているわけです。
この辺りに身分の違いがきちんとあらわれています。

この女楽は、朱雀院の五十賀に開催されたものですから、普段着といっても、現代でいうと、そのまま近所に出かけても恥ずかしくない程度のきちんと感があるわけです。

野分巻で明石の上は、

端近うゐたまへるに、御前駆追ふ声のしければ、うちとけ萎えばめる姿に、小袿ひき落として、けぢめ見せたる、いといたし。


と、源氏の君の来訪に糊気の落ちた袿の上から、さらに小袿を羽織って居住まいを正すという場面があるように、「小袿」は少しきちんとしたものでもあるようです。

まったくのラフな普段着というのは、空蝉巻に見られるような格好かもしれません。

白き羅(うすもの)の単襲(ひとへがさね)、二藍の小袿だつ物、ないがしろに着なして、くれなゐの腰ひき結へるきはまで、胸あらはに、ばうぞくなるもてなしなり。


蒸し暑いとはいえ、なかなかあられな格好をしています。
空蝉の継娘である軒端の荻の格好です。
暑いので、部屋で下着姿のままゲームをしている、という感じでしょうか。
ちなみに夕霧の妻・雲井の雁も、なかなかしどけない普段着姿を披露してくれています。

『とりかへばや物語』でも、男君(実は姫君)のしどけない普段着姿が披露され、その姿に宰相中将が「男だとわかっているけど~」状態で、抱きつく場面があります。


紫の上と明石の上の着ていた「細長」ですが、これは諸説があって明確ではありません。
ただ、『源氏物語』や『枕草子』から判断すると、唐衣や裳の代用に着るものであり、袖は唐衣のように短く、おくみがなく、脇がひらき、丈が細長いものだったと考えられます。

女楽では、明石の女御以外の3人がこの「細長」を着ています。
「小袿」だけよりも、若干きちんと感はあるわけです。

ただ、若菜上巻で、「細長」を着ている女三の宮を「袿姿」と記していることから、プライベート空間における両者の違いは、あまりないのかもしれません。



このように、衣装に着目することで、物語の人物や、どういう身分にある人間かを特定することができるわけです。


こうして、作品の世界を楽しむのもいいかもしれません。
ファッションのTPOも、こうして楽しむといいですね。


タグ:衣装 源氏

花見の季節・梅から桜へ [民俗・行事]

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[引用]工房摩耶


今年は暖冬のためか、梅の開花も早くなっています。
この時期になると、かすかな、梅の芳醇な(?)香りに、春を感じます。

花見というと、通常、「桜」の花見を連想します。

確かに日本人に愛され、日本を代表する花かもしれません。
いわゆる、「白磁にさっと紅を刷いたような」、白と見まごうばかりの薄紅色の可憐な花びらは、とても愛らしいですね。
桜好きの故・宇野千代氏に限らず、日本人の心を色づかせる花です。

桜が愛されるようになったのは、平安時代。

桜の花見は、嵯峨天皇が宮中で催した宴が最初だといわれますが、平安時代では、「花」=「桜」
『源氏物語』の「花宴」は「桜を鑑賞する宴」を意味しており、他の花を鑑賞する場合は、単に「花見」「花宴」とはいいません。

『源氏物語』の明石巻に、

春・秋の、花・紅葉のさかりなるよりも


とあるように、春・秋の花の対比で、春の桜は「花」と称され、秋の紅葉は「紅葉」とその固有名が記されています。
これは梅でも同じで、末摘花巻では、

「たゞ、梅の花の色のごと。三笠の山の少女をば捨てゝ」


とあります。
つまり、桜は「花」、桜以外の花はその固有名が記されているのです。

このことは現在の歌(和歌・連句など)の世界でも同じ。

たとえば、連句では表6句では必ず2つの季節を詠む、月の句、恋の句、雑の句、花の句を入れるなど、いろいろな規則があります。
花の句は、初折と名残の折のどちらも裏で1句ずつ2ヶ所で詠むこととなっており、初折の裏11句目、名残の裏5句目が花の座、初折の裏11句目は動かしてもいいが、名残の裏5句目は通常動かさないなどの決まりごとがあるわけです。

花の句は、通常、春の句。
そして、単に「花」と詠む場合は、「桜」を指しています。

もちろん、花の発句で始まった場合は、初折の裏の花は桜か梅がいいなどありますが、原則は「桜」です。


このように、

花=桜

というイメージが定着しています。
しかし、平安以前、つまり奈良時代には、

花=梅

のイメージが強いのです。



「梅」は、古くから日本(九州北部)に自生していたという説もありますが、奈良時代以前に、中国文化と共に遣唐使が薬木として、中国(湖北省・四川省)から日本に持ち帰ったものといわれています。

『箋註倭名類聚抄』には、

皇国古くは梅なし、ゆえに古事記日本書紀に皆是物なし、後に西土より之を致す。


とあり、大陸から渡来したもののようです。


唐では、杜甫や李白が、「梅」にちなんだ漢詩をたくさん詠んだことから、積極的に中国文化を摂取していた奈良時代の知識人は、春先に咲く典雅な梅をこよなく愛しました。
(このような中国の影響の例は、菊で長寿・重陽の節供などで若干ふれています)


たとえば、杜甫の「江梅」には、

梅蕊臘前に破るれば、梅花年後に多し。


という一節があり、梅のつぼみが12月にふくらみはじめれば、年明けにはいつもの年より梅が多く咲くとあります。
冬と春の交代、春を告げる花が、「梅」なのです。

白居易の「春至」には、春が来たようすを、梅と柳であらわしています。

白片の落梅は、澗水に浮かび。
黄梢の新柳は、城墻より出でたり。


現代の感覚だと、「桜と柳」ですが、中国では春を代表するのは「梅と柳」のようです。
杜審言の「晋陵の陸丞の早春遊望に和す」にも、

雲霞、海を出でて曙け、
梅柳、江を渡りて春なり。
淑気、黄鳥を催し、
晴光、緑蘋に転ず。

海から生まれたような雲や霞、夜は明けて行き、
梅や柳のつぼみは長江を渡って、ここはすっかり春の色。
暖かな風はうぐいすに鳴くことをうながすし、
明るい陽射しは緑色の浮き草に揺れ輝いている。


と、梅と柳の組み合わせが見られます。
ちなみに杜審言は杜甫の祖父です。


このような中国文化の影響のもと、『万葉集』には「萩」の次に「梅」が多く詠まれています。

(第5巻815番歌・大弐紀卿)
正月立ち春の来らば かくしこそ梅を招きつつ 楽しみ終へめ


この歌は、大伴旅人の邸宅で詠んだ梅の歌32首の最初の歌。
その序文によると、

天平2年正月13日に太宰府の帥・大伴旅人の邸宅で宴会をした。
天気がよく、風も和らぎ、梅は白く色づき、蘭が香っている。
嶺には雲がかかって、松には霞がかかったように見え、山には霧がたちこめ、鳥は霧に迷う。庭には蝶が舞い、空には雁が帰ってゆく。空を屋根にし、地を座敷にしてひざを突き合わせて酒を交わす。
楽しさに言葉さえ忘れ、着物をゆるめてくつろぎ、好きなように過ごす。
梅を詠んで情のありさまをしるそう。


ということで、春が来たら、こうして梅を見ながら楽しもうよ、という歌です。

その他、この宴で詠まれた歌を2~3首紹介すると。

(第5巻818番歌・山上憶良)
春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ

大意:春になるとまず咲く我が家の梅の花を、一人で見て春の日を過ごしましょう。


(第5巻820番歌・小令史田氏肥人)
梅の花 今盛りなり 百鳥の 声の恋しき 春来るらし

大意:梅の花が今を盛りと咲いています。たくさんの鳥の声を聞きたくなる春が来たのですね。


(第5巻827番歌・小典山氏若麻呂)
春されば 木末隠りて 鴬ぞ 鳴きて去ぬなる 梅が下枝に

大意:春がやってくると梢に隠れて鴬が梅の下枝に鳴きわたります。




梅は春を告げる花であり、冬の代表である「雪」との対比もよく見られます。

(第5巻849番歌・大伴旅人)
残りたる雪に交れる梅の花 早くな散りそ 雪は消ぬとも


残雪にまじっている梅、これが紅梅か白梅かで印象はかなり変わりますが、たいていこういう場合は「白梅」が多いです。

『三代実録』に、

東宮の紅梅


とあることから、紅梅は9世紀半ばに渡来したと思われます。

(第8巻1649番歌・大伴家持)
今日降りし 雪に競ひて 我が宿の 冬木の梅は 花咲きにけり


これも雪と梅との対比です。

平安時代に入っても、しばらくは中国文化の影響から「梅」が主流でしたが、『古今和歌集』になると、「桜」の歌が多くなります。
ただ、この時期はまだ「花=梅」のイメージが強く、桜は「桜花」「花桜」と表現されています。

  春の初めに詠める   藤原言直
春やとき花やおそきと聞き分かむ鶯だにも鳴かずあるかな


この「花」は梅です。
春の来たのが早いのか、梅の花の咲くのが遅いのか、声を聞いて判断したいその鶯さえもまだ鳴かないことだ、という意味です。

  雪の降りけるを見てよめる   紀友則
雪ふれば木ごとに花ぞさきにけるいづれを梅とわきてをらまし


これも、「花」は梅を指しています。
「白梅」です。
雪の中に咲いた梅の花を、どうやって見分けて手折ればよいのだろうか、という内容ですから。


そのうち、『源氏物語』で見たように、「花=桜」が定着していきますが、それでも、春を告げる花として、梅は和歌に詠まれつづけていきます。

ただ、御所の紫宸殿の前庭にある「右近の桜、左近の橘」の桜は、『続後紀』には、もともとは紫宸殿の前庭には梅が植えられていたことが記されており、『古事談』にも、

南殿の桜樹はもと是れ梅樹なり


とあるように、桜は梅にかわって貴族社会ひいては日本文化に浸透していったことが窺えます。




さて、こういう花を見る、いわゆる「花見」の起源は何かというと。


嵯峨天皇が宮中で催した宴が最初だという説は最初に挙げましたが、『徒然草』にはすでに娯楽としての花見が見えます。

(第137段)
花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行衞知らぬも、なほ哀に情ふかし。咲ぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所おほけれ。
歌の言葉書きにも、「花見にまかれりけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、「さはる事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」といへるに劣れる事かは。
花の散り、月の傾くを慕ふならひはさる事なれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などはいふめる。


この花見では、貴族風の花見とそうでない田舎ぶりの花見の違いが説かれているわけですが、すでに飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎを予感させる、楽しげなものです。

有名なところでは、豊臣秀吉の醍醐の花見などがあるでしょう。

また、花見の風習が庶民に広まったきっかけは、江戸時代に徳川吉宗が江戸の各地に桜を植えさせ、花見を奨励してからだといわれています。




とはいえ、もともと「花見」とは、季節の変わり目(節分)に、植物を愛で、その生命力を身に付けることが目的でした。
この辺りのことを書くと、長くなるので割愛しますが。

梅には、果実としての存在に加えて、平安時代の日本最古の医学書『医心方』に、「梅干」の薬効が記されているように、重陽の節供の「菊」と同様に、その植物の効能や生命力を身に付け、健康を願うわけです。
現代に健康志向にも通じる感覚ですね。



今年の梅見では、そういうリフレッシュを兼ねて楽しんでみてはいかがでしょうか。

「花より団子」というのも、それはそれで楽しそうですが。


タグ:花見

無病息災・年末年始の行事 [年中行事]

板前魂おせち.jpg
[引用]板前魂おせち


1年の節目である年末年始の行事は、もっとも家庭に定着しているものでしょう。
大掃除にお節料理、お雑煮の違いなどメディアでもよく取り上げられます。


年末行事は、だいたい12月13日から始まります。

京都では、12月13日を1年の区切りとして、花街や室町、西陣の旧家ではこの日からお正月の準備を始めます。
1年の感謝をこめて、本家や得意先などに挨拶に回りますが、花街では、祇園甲部の芸舞妓さんたちは、それぞれに家元に挨拶に行き、ご祝儀の舞扇を受けて精進を誓います。



江戸時代には、この日に門松用の松を山から切り出してきたり、家の中の大そうじを始めたそうですが、家のそうじが遅れても、神だなや仏さまの「すす払い」は必ず行われていたようです。

現在は、13日では早すぎるのか、西本願寺・東本願寺のすす払いは、12月20日。
その他の神社仏閣でも、20日過ぎに行なわれています。



年末の買出しも、大切です。
12月の中ごろから年末にかけて、お正月のおくり物やえんぎもの、日用品を売る市が立ちます。
京都でも、東寺の終い弘法が12月21日に、北野天満宮の終い天神が12月25日にあり、毎年賑わっています。




31日になると、いよいよ忙しくなります。



京都では、大晦日、除夜の鐘をききながら八坂神社におけら参りに行きます。
おけら参りは、京都に伝わる正月迎えの行事です。

12月28日に八坂神社で「鑚火式(さんかしき)」が行われます。
おけら参りの火種を起こす神事で火のつき方などで翌年の吉凶を占います。
午前5時、宮司が桧の杵と臼で浄火を鑽(き)り出し、「おけら灯籠」に移します。
その火は本殿内に年中絶やすことなく灯しつづけられます。

大晦日、八坂神社では午後3時より「大祓式」が行われ、午後7時に「除夜祭」が行われ、祭典後、境内3ヶ所の「おけら灯篭」に「おけら火」を移します。

「おけら参り」の名の由来は灯篭に厄除けに効果があるとされる朮(おけら)の根茎がくべられることからくるもので、参詣者は、このおけら火を竹の繊維でできた「吉兆縄」(これは古い言い方で、現在は「炭火縄」と呼ばれています)に移し、途中で火を消さないようにくるくると回しながら持ち帰ります。
そして神棚の灯明につけ、元旦の大福茶や雑煮の火種として用い、1年の無病息災を願います。
燃え残った火縄は「火伏せのお守り」として、台所などにお祀りします。

おけらの根は古くから漢方の健胃薬として知られています。
山野に生えるキク科の多年草で、かつては京都市周辺の山麓に広く自生して、大原女が売り歩いたと言われますが、若芽は軽くゆでてからゴマ和えなどにするとおいしいようです。
おけらは火で燃やすと臭いが出るので、疫神を追い払うと考えられていたようです。

このおけらは、平安時代より正月の行事に欠かすことのできない屠蘇散(とそさん)にも主薬として配合されています。



大晦日から元旦にかけては、眠りません
夜通し眠らないで、いろりの火を燃やしつづけ、ごちそうを準備して「お正月さま」「年神さま」をむかえます。

なので、「初夢」は、1月1日から2日にかけて見る夢のことです。



そして、このお節料理の準備をしている頃に食べるのが、「年越しそば」。

大晦日の夜にそばを食べるのは、細く長いそばを食べることによって、長生きができますように、新しい年に家族みんなが健康で幸せにくらせますように、という願いをこめたものです。






そして、元旦。


朝、家族がそろい、新年の挨拶。




そして、お屠蘇を飲みます。


お屠蘇は、日本酒でも、金粉入りの日本酒でも、ワインでもありません。
薬膳酒です。

正式には「屠蘇延命散」「屠蘇散」といい、十種類近くの薬草を合わせたもので、日本酒やみりんに浸して作ります。


お屠蘇を飲む習慣は、主に西の地方に多いようですが、元旦に飲むと1年の邪気を避けるといわれる飲み物です。
お屠蘇に含まれている薬草には、風邪を防ぎ、消化機能を整え、身体を温める作用があることから、お正月に無病息災を願って飲むわけです。


これは、中国から伝わった風習。
「三国志」にも登場する魏の国の名医「華佗(かだ)」の処方という説が有力です。
『本草綱目』には、

陳延の小品方に云く、此、華佗の方也。


とあります。


一般に広まったのは、唐代。
風邪予防のために作った屠蘇が、おいしいとの理由から急速に広まったそうです。

名前の由来はいろいろありますが、李勝という医者が、屠蘇で人を治し、その医者の住んでいた家が「屠蘇庵」という名だったというものもありますが、屠蘇の「屠」は「殺す」という意味、「蘇」は鬼の名前で、病を起こす鬼の総称であって、細菌を殺す、つまり伝染病の予防の意味があります。


日本に伝わったのは平安時代。

嵯峨天皇の時代、元旦に宮中の儀式として用いたのに始まり、次第に一般に普及して、新年の始まりの習慣として定着しました。


屠蘇の処方はさまざまですが、素材と効能は以下のような感じです。



・山椒:健胃、抗菌、利尿
・白朮:健胃、鎮痛、利尿(←おけら参りの「おけら」はこれ)
・防風:発汗、解熱、抗炎症
・桔梗:排膿、痰を去る
・陳皮:健胃、咳を鎮め痰を去る、吐き気を止める
・桂皮:健胃作用、発汗・解熱、鎮静・鎮痙


全体として胃腸の強壮と風邪の予防の総合薬みたいなものですね。
屠蘇散は、薬局や漢方薬を売っているお店で市販されているので、気になる方はチェックしてみてください。


昔から「お屠蘇」は幼少のものが、まず一番に飲む事になっています。
これは、中国の『礼記』に依るもので、親が病気になった時には、まず、子供達が薬をなめる、すなわちお毒見をすると書かれています。

お屠蘇を盃にそそぐのは最年長の人。
だいたい、一家の家長の役割です。
飲む順番は、若い人の生気を年長者に渡すという意味で、年少者から年長者へと盃をすすめるのが決まりとなっています。厄年の人がいる場合は、最後に厄年の人が飲みます。
これは、「厄年以外の人達が口にした盃は災いを追い払うことができる」といわれるためのようです。
なので、屠蘇器を厄年の厄払いをする道具とする地域もあります。


中国の医書『千金要方』には、

屠蘇酒は疫気を辟け、元旦に温病や傷寒の病気にかからないための処方。


とあり、内容を要約すると、

(大黄など)7つの薬を砕いて細かくし、袋に入れて、12月の晦日に井戸の中にかけておき、正月一日の朝に薬を出して、酒の中に入れて少し沸かす。そしてできた屠蘇酒を、東を向いて飲む。このとき、年の若い者から順に飲み、一家の無病息災を願う。


と、元旦の薬酒として定着していることが窺えます。

このことは、近世の京都の豪商の日記にも出てきます。


つまり、例えば9月の重陽の節句で菊を浮かべたお酒を飲むように、お正月のお屠蘇も、節目ごとに健康のために飲む薬というわけです。



お屠蘇を飲むと、同じ人(最年長者)から、手のひらに田作りを乗せてもらい、それを食べます。
田作りでない場合もあると思います。


ちなみにお節料理の意味は。


・黒豆:まめ(健康)に暮らせるように。
・数の子:子孫繁栄。
・田作り:(江戸時代の高級肥料として片口いわしが使われたことから)豊年豊作祈願。
・昆布:よろこぶ。
・海老:長寿。
・かち栗:勝つ。
・鯛:めでたいに通じる語呂合わせ。
・橙(ダイダイ):代々に通じる語呂合わせ。子孫が代々繁栄するように。
・ごぼう:地に根を生やすように。
・里芋:(里芋は子芋がいっぱいつくことから)子宝にめぐまれるように。
・栗きんとん:(色から)財をなす。




ちなみに私は、伊達巻とくわいが好きです。




もうすぐお正月。

今年のお正月は、年中行事に注目しながら行なうのもよいかもしれません。



ちなみに、奈良の橿原神宮では前年に初詣に行き、初穂料をおさめると、お正月間近になると屠蘇散が送られてきます。
今年も初詣に来てくださいね、ということでしょうが、この心遣いがなぜかとても好きです。


子の成長・天皇家のお宮参り [民俗・行事]

京都ちりめんや.jpg
[引用]京都ちりめんや


11月に、秋篠宮家の第三子・悠仁親王が、皇居内の賢所皇霊殿神殿にお参りする「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」が行なわれます。

いわゆる、一般の「お宮参り」です。
ご誕生から、もう50日が経ったのですね。

平安時代には、誕生後50日目と100日目には、祝宴が行なわれました。
五十日(いか)とか百日(ももか)と呼ばれるものです。

『紫式部日記』には、

御五十日は霜月のついたちの日。
例の人々のしたててのぼりつどひたる御前の有樣、繪にかきたる物合(ものあはせ)の所にぞ、いとよう似て侍りし。御帳の東の御座のきはに、御几帳を奧の御障子より廂の柱までひまもあらせず立てきりて、南おもてに御前の物はまゐりすゑたり。
西によりて大宮のおもの、例の沈(ぢん)の折敷(をしき) 何くれの臺なりけむかし。そなたのことは見ず。御まかなひ宰相の君讚岐、とりぐ女房も釵子 元結などしたり。若宮の御まかなひは、大納言の君、ひんがしによりてまゐりすゑたり。
小さき御臺 御皿ども 御箸の臺 洲濱なども、ひひな遊びの具と見ゆ。それよりひんがしの間の廂の御簾すこしあげて、辨の内侍 中務の命婦 小中將の君など、さべいかぎりぞ取り次ぎつつまゐる。奧にゐてくはしうは見侍らず。


とあり、幼児の前に小さいお膳・お皿・お箸台・洲浜などを並べ、餅を供したものです。

この餅は、身分の上下に関わらず、市の餅を用いることとなっており、15日までは東の市、16日以降は西の市の餅を、だいたい50果求め、これに摩粉と漿煎を混ぜて供することとなっています。


『紫式部日記』には、50日の祝宴に、めのとにいだかれた若宮の姿が描かれています。

こよひ少輔のめのと色ゆるさる。ここしきさまうちしたり。宮いだき奉れり。
御帳のうちにて、殿のうへいだきうつし奉り給ひて、ゐざりいでさせ給へり。火影の御さまけはひことにめでたし。赤いろの唐の御衣 地摺の御裳うるはしくさうぞき給へるも、かたじけなくもあはれに見ゆ。大宮は葡萄染の五重の御衣、蘇芳の御小袿奉れり。殿、もちひはまゐり給ふ。


現在は、50日を過ぎたころに行なわれる行事として、お宮参りが定着しました。

お宮参りは、その土地の守り神である産土神(うぶすながみ)に赤ちゃんの誕生を報告し、健やかな成長を願う行事です。
昔は、氏神さまに参拝して新しい氏子(うじこ)として神さまの祝福をうける行事とお産の忌明けの儀式の意味合いもありましたが、皇室では、皇祖神のいらっしゃる三殿に向かいます。


三殿とは、宮中祭祀の行なわれる場所で、皇居内吹上御苑の東南にある、賢所、皇霊殿、神殿の総称です。
皇室の祭祀は主としてここと各地の山陵で行われています。

賢所は、明治以前の京都御所にもありましたが、皇霊殿と神殿は明治維新以降の宮中祭祀制度の再編にもっとも尊い御殿とされ、かつては恐れ畏(かしこ)むの意味で「威所」「恐所」とも書かれました。
明治以前は天皇のお側近く仕えた内侍が奉仕したため、内侍所と呼ばれ、また、あるいは温明殿(うんめいでん)、春興殿(しゅんこうでん)という名も残っています。

賢所の次に位置づけられる皇霊殿は、神武天皇から昭和天皇に至る歴代天皇、皇后、皇族方をお祀りしています。

神殿には、八神、天神地祇が祀られています。


悠仁親王はこの三殿にお参りすることになるわけです。



宮中で祭祀が行なわれる由来は、『日本書紀』に記されています。

天照大神、手に寶鏡を持ちたまひて、天忍穗耳尊に授けて、祝きて曰はく、「吾が兒、此の寶鏡を視まさむこと、當に吾を視るがごとくすべし。ともに床(ゆか)を同くし殿を共にして、齋鏡(いはひのかがみ)とすべし」とのたまふ。


「この宝鏡を私(=天照大神)だと思って宮中に祀るように」という意味であり、これが鏡を奉斎する賢所の起源です。


鏡をご神体にする神社は多いですが、そのルーツがここにあります。
そのため神社には、鏡が多くあります。
京都・北野天満宮には、多くの鏡が奉納されており、鏡を神聖視するあり方を垣間見ることができます。



「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」を終えると、悠仁親王は紀子妃に抱かれて御所を訪ね、天皇、皇后両陛下にあいさつされます。

この辺りの中継があるとうれしいのですが。


神楽と鳴物・神事と音楽の関係 [民俗・行事]

三社祭・出光美術館.jpg
[引用]三社祭・出光美術館


まつりを盛り上げるものとして、音楽があります。

たとえば、
神事の際に奉納される、神楽。
神社音楽として有名な、雅楽。
祇園祭や天神祭などで鳴りひびく、鳴物。など。



音楽の起源は、有史以前まで遡ることができますが、おそらく最初の音楽は歌声でしょう。

声。

感情の起伏により発せられる声の抑揚から、リズムが生まれたと考えられます。
その際に、手拍子などを伴ったかもしれません。

音楽はまず、人間の体を使って発せられた、コミュニケーションの手段だったのです。


人間が集まり、1つの共同体の中で生活するにしたがい、みんなで行なう作業が出てきます。
狩猟や農耕など、生きるためにはお互いの意思疎通が大切になりますし、目的の成功を願ったり、達成したよろこびを分かち合ったりするなど、心を1つにさせる手段が生み出されるのは、ごく自然ななりゆきです。

古代の音楽が、祈りや祝祭、あるいは狩りや儀式など当時の生活に密着したものであることは、このことから容易に想像ができます。




神事の話に戻りますが。

先にあげた、神楽、雅楽、鳴物には、それぞれ役割分担があります。



神事で奉納される神楽は、「神座(かむくら)」が転じたものとする説が一般的です。
その起源は、

『日本書紀』神代紀に、

猿女君の遠祖天鈿女命(あまのうずめのみこと)、すなわち手に茅纏の矛を持ち、天石窟戸(あまのいはやと)の前に立たして、巧に作俳優(わざをき)す。また天香山の真坂樹をもって鬘にし、蘿(ひかげ)をもって手繦にして、火処焼き、覆槽(うけ)置せ、かむがかりす。この時に、天照大神、聞しめして曰さく、「吾、このごろ石窟に閉り居り。おもふに、まさにに豊葦原中国は、必ず為長夜くらむ。いかにぞ天鈿女命かくえらくや」とおもほして、乃ち御手を以て、細に磐戸を開けて窺す。時に手力雄神、すなわち天照大神の手を奉承りて、引きいだしまつる。


とあります。


アメノウズメが持つ矛は、それを持ちあるしぐさを行なうことを『古事記』では、「胸乳を掛き出で裳緒をほとに忍し垂れき」とあるように、少しセクシャルな要素もありますが、豊穣や活力を高めるなど、生命力を司るシンボルです。
ここでは、隠れてしまった太陽に活力を与えようとしたものです。

また、アメノウズメの身につけるものは、現在も神事で見かけるものが多いと思います。
たとえば、京都・葵祭では、参列する奉仕者が葵の葉を身につけていますし、植物(上記の『日本書紀』では「ひかげ」になっています)のたすきをかけているのもよく見かけるでしょう。
これらは、その聖なる植物の力を身につけることで、邪気をはらい、その力の加護を得るためのものです。


アメノウズメは、このように聖なる力を身につけて、太陽に活力を与えようとしているわけです。

『古事記』にも同様の記事がありますが、アマテラスの岩戸隠れの段でアメノウズメが神がかりして舞った日本神話が神楽の起源とされています。

猿女君は宮中において鎮魂の儀に携わっており、これは猿女君がその役割をになうことになった由来である、祖先のアメノウズメの活躍を描いたものですが、ここから、神楽の元々の形は鎮魂・魂振に伴う神遊びであったと考えられます。





雅楽は、中世以前に中国や朝鮮半島、南アジアから伝わった儀式用の音楽が元になっています。

日本には、神楽歌・大和歌・久米歌などがあり、これに伴う簡素な舞もありましたが、5世紀頃から仏教文化の渡来と前後して音楽や舞が伝わってきました。
雅楽は、日本古来の歌や舞と、渡来してきたものが融合してできたもので、10世紀ごろに完成。
皇室の保護のもと、伝承されてきたものですが、これが廃れた時期もありました。

現在では、宮内庁のものが有名ですが、そも基礎となったのが、近代以前に三方楽所とされていた、大阪・四天王寺の天王寺楽所、京都・宮中の大内楽所、奈良・春日大社の南都楽所です。
この三方楽所は、現在でも伝統を守りつづけています。


これら雅楽は、神事の際に、神を慰撫する役割を持っています。

この辺り、神楽とよく似ていますが、神楽が、神への奉納(鎮魂・魂振)という役割を明確に持つのに対して、雅楽にも、そのような要素は認められつつも、儀式音楽としての役割を担っているようです。
おそらく、皇室の保護のもと存続され、形式が整えられてきたことも、その理由でしょう。


神楽が奉納の際に行なわれ、雅楽が儀式の間、演奏されるのはこのためです。



しかし、この雅楽は、神事の最重要部分においては、演奏されません。

神事の最重要部分とは、いわゆる、神おろし。
まつりのために、ご神体を移す部分です。

本来、この部分は、秘儀ですから公開されません。
京都・上賀茂神社の御阿礼神事がこれです。

もともと神おろしは、夜の暗い中で行なわれていました。
仲哀天皇の記事からもそれが窺えます。
現在も、上賀茂神社の御阿礼神事や、奈良・若宮神社の若宮おん祭がそうです。



つまり、秘儀、なのです。




現在は、観光客相手のため、日中に行なわれることも多いですが、それでも、その部分は非公開です。


日中の行なわれる場合、この部分においては、おそらく多くの神社でもそうだと思いますが、演奏は止まります。
その代わり。


「お~~~~~~、お~~~~~~」


という神社関係者の低い唸り声が聞こえてくるはずです。

もしくは、無言


神事の最重要部分は、古来の様式によってとり行なわれているのです。





鳴物ですが、これは、大阪・大阪天満宮の天神祭がわかりやすいかも。


船渡御の際に、「人形船講」の船が列外船として、鳴物を鳴らし、自由に走り回っています。
これは、神の巡行の際に先導役の厄除けという意味を持っています。
人形船講には猿田彦の人形が乗っていますが、これは「露払い」といい、わざと錫杖を引きずって地面と触れさして音を発することで悪霊を退散させることで、猿田彦が皇孫ニニギノミコトの先導をつとめた神話に由来します。


江戸時代、参勤交代のための大名行列の先頭に、

「した~に~、した~に~」

と言って進むのも、似たようなものです。

京都・祇園祭のコンチキチンも、「鳴物」に相当しますね。


鳴物は先導役・邪気払いですから、雅楽と同様、重要部分においては演奏を止めなければなりません。



このように、音楽にも役割分担があることをふまえて見学するのも楽しいですよ。

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