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水無月・夏越祓で無病息災 [年中行事]

水無月・甘春堂本店.jpg
[引用]甘春堂本店


6月30日は、水無月を食べる日です。


6月になるとお店に並び始めるこの和菓子。
少し早めでしたが、先日、いただきました。季節ものですし、水無月を食べると夏を実感します。


水無月は、白の外郎生地に小豆をのせ、三角形に切った菓子です。
最近は黒砂糖入りの黒い水無月や、抹茶入りの緑の水無月がありますが、やはり見た目にも涼しげなプレーンタイプが好みです。


6月に水無月を食べる習慣は、京都を中心とした関西圏にしかないようですが、最近では少しずつ広まっているようです。




「水無月」は、6月のこと。


 1月=睦月(むつき)
 2月=如月(きさらぎ)
 3月=弥生(やよい)
 4月=卯月(うづき)
 5月=皐月(さつき)
 6月=水無月(みなづき)
 7月=文月(ふづき)
 8月=葉月(はづき)
 9月=長月(ながつき)
10月=神無月(かんなづき)
11月=霜月(しもつき)
12月=師走(しわす)


陰暦(旧暦)の異称として以上のような名称があります。

水無月は、新暦では7月。
梅雨明けはだいたい7月上旬なので、この時期は比較的雨の多い季節です。なので、この時期を「水無月」すなわち「水の無い月」と呼ぶには疑問がありますが、そもそも、「みなづき」の「な」は、「無」の字を当てているだけで、もとは所有格を表す後置詞「の」です。
つまり、「水の月」になります。


雨のある月なので、「水の月」

ぴったりのネーミングです。



このことは、10月の「神無月」も同様で、もとは「神の月」。
10月には全国の神が出雲大社に行って、地元には神がいなくなることから「神無月」といい、一方、出雲では神が集まることから「神有月(かみありづき)」という話は、「な」が、当て字の「無」の意味で定着してしまったことからくるものです。

けれど、言葉は生きていますから、こういうユーモアのある言い方は好きですね。






それはともかく。


京都では1年のちょうど折り返しにあたる6月30日に、「夏越祓(なごしのはらえ)」が行なわれます。

夏越祓神事は「水無月の祓い」ともいい、半年の罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈願する神事です。
この日、神社の鳥居の下や境内には茅(ちがや)で作られた大きな輪が用意されます。
参拝者は、神社に設けられたその茅の輪を3回くぐりますが、その際に、手に小さな茅の輪を持ったり、くぐり方にも作法があるので、神社の方に聞くといいですね。


穢れを祓う清める方法として、紙の人形(ひとがた)を作って自分の分身とし、体を撫で、息を吹きかけて罪や穢れを移して、神社に納めたり、海や川に流したり水盤に張った水に投じます。

京都・上賀茂神社では、神事の後に何千体もの紙の人形を手で一体ずつ楢の小川に流して穢れを祓う「人形流し」が行われています。




茅の輪をくぐる神事の由来は、『風土記』逸文の「蘇民将来」にあります。

備後の国の風土記に曰はく、疫隅(えのくま)の国社。昔、北の海に坐しし武塔(むとう)の神、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。その所に将来(しょうらい)二人ありき。
兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は甚く貧窮(まづ)しく、弟の将来は富饒みて、屋倉一百ありき。 ここに、武塔の神、宿処を借りたまふに、惜みて借さず、兄の蘇民将来、借し奉りき。即ち、粟柄(あはがら)を以ちて座(みまし)と為し、粟飯等を以ちて饗(みあ)へ奉りき。
ここに畢(を)へて出でませる後に、年を経て、八柱のみ子を率て還り来て詔りたまひしく、「我、将来に報答(むくひ)せむ。汝が子孫其の家にありや」と問ひたまひき。蘇民将来、答へて申ししく、「己が女子と斯(こ)の婦(め)と侍(さもら)ふ」と申しき。即ち詔りたまひしく、「茅の輪を以ちて、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。
詔の隨に着けしむるに、即夜に蘇民の女子一人を置きて、皆悉にころしほろぼしてき。即ち、詔りたまひしく、「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。


蘇民将来と将来の兄弟のもとに、スサノヲが身をやつして宿を乞いに来る。
裕福な弟・将来はそれを断り、貧しい兄・蘇民将来は宿を供して、スサノヲの教えを受ける。その教えに従い、腰に茅の輪を下げたところ、子孫代々に至るまで災いなく栄えたという。




この夏越祓神事のときに食べるのが、「水無月」です。


水無月は、氷室(ひむろ)の氷をかたどったもの。
氷室は、夏の暑さをしのぐために、冬の間にできた氷を夏まで貯蔵した穴蔵ことで、『日本書紀』にすでに登場します。

時に皇子、山の上より望りて、野の中を瞻(み)たまふに、物有り。其の形廬(いほ)の如し。乃ち使者を遣して視しむ。還り来て曰さく、「窟(むろ)なり」とまうす。
因りて鬪鷄稻置(つけのいなき)大山主を喚して、問ひて曰はく、「其の野の中に有るは、何のむろぞ」とのたまふ。啓して曰さく、「氷室なり」とまうす。
皇子の曰はく、「其の蔵めたるさま如何に。亦奚(なに)にか用ふ」とのたまふ。曰さく、「土を掘ること丈余。草を以て其の上に蓋く。敦く茅荻(ちすき)を敷きて、氷を取りて其の上に置く。既に夏月を経るにきえず。其の用ふこと、即ち熱き月に当りて、水酒に漬して用ふ」とまうす。
皇子、則ち其の氷を将(も)て来りて、御所に献る。
天皇、歓びたまふ。是より以後、季冬(しはす)に当る毎に、必ず氷を蔵む。春分(きさらぎ)に至りて、始めて氷を散る。
(『日本書紀』仁徳天皇62年5月条)


毎年6月1日には「氷の節供」として、氷室から運び出した氷を神に捧げ、その一片を口にして邪気を祓う行事が行われていました。



夏に氷で涼をとるようすは、『枕草子』にも見えます。

あてなるもの 薄色に白襲の汗衫(かざみ)。かりのこ。削り氷にあまづら入れて、あたらしき金鋺に入れたる
水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪のふりかかりたる。いみじううつくしきちごの、いちごなどくひたる。
(『枕草子』第42段)


いみじう暑き昼中に、いかなるわざをせんと、扇の風もぬるし、氷水に手をひたし、もてさわぐほどに、こちたう赤き薄様を、唐撫子のいみじう咲きたるに結びつけて、とり入れたるこそ、書きつらんほどの暑さ、心ざしのほど浅からずおしはかられて、かつ使ひつるだにあかずおぼゆる扇もうち置かれぬれ。
(『枕草子』第192段)


また、『源氏物語』蜻蛉巻にも、夏の暑い日、氷をもってはしゃぐ人々の姿が描かれています。

を、物の蓋に置きて割るとて、もて騒ぐ人々、大人三人ばかり、童と居たり。
唐衣ども、汗衫も着ず、皆、うち解けたれば、御前とは、見給はぬに、白き羅の御衣、着給へる人の、手に氷を持ちながら、かく争ふを、少し笑み給へる御顔、いはん方なく、美しげなり。いと、暑さの堪へ難き日なれば、こちたき御髮の、苦しう思さるるにやあらん。


氷室の氷はとても貴重なもので、氷を口にすると夏痩せしないとも信じられ、臣下にも氷片が振舞われたようですが、庶民にとっては手の届かない代物。
そのため、氷をかたどった「水無月」が作られるようになったわけです。


水無月は、氷室の氷をかたどった三角形の形に、邪気を祓うとされる小豆がのせたものです。
小豆はまた、氷室から切り出された氷についた砂粒を表しているともいわれます。



京都の夏をどう過ごすかは、大きなポイント。
暑くなければ夏ではなく、特に祇園祭は暑くなければ始まらないわけですが、京都の暑さは尋常ではありません。

それは平安期も同じで、『源氏物語』常夏巻には、暑さをやわらげるための工夫が見られます。
氷水でつくった「水飯」を食べたり、池に張り出した釣殿で、視覚的にも涼を得ていました。

いと暑き日、ひむがしの釣殿に出で給ひて、すずみ給ふ。中将の君も、さぶらひ給ふ。したしき殿上人、あまたさぶらひて、西河よりたてまつれる鮎、ちかき河のいしぶしやうのもの、御前にて調じ、まゐらす。例の、大殿のきむだち、中将の御あたり訪ねて、まゐり給へり。
「さうざうしく、ねぶたかりつる、をりよく物し給へるかな」とて、大御酒まゐり、氷水召して、水飯など、とりどりに、さうどきつつ食ふ。
風は、いとよく吹けども、日のどかに、曇りなき空の、西日になる程、蝉の声なども、いと、くるしげに聞ゆれば、「水のうへ無徳なる、今日の暑かはしさかな。無礼の罪は、許されなむや」とて、より臥し給へり。
「いと、かかる頃は、遊びなどもすさまじく、さすがに暮らしがたきこそ、くるしけれ。宮づかへする若き人々、たへがたからむ。直衣、ひもとかぬほどよ。ここにてだに、うち乱れ、このごろ、世にあらむことの、すこし珍しく、ねぶたさ醒めぬべからむ、語りて聞かせ給へ。なにとなく、翁びたる心ちして、世間の事も、おぼつかなしや」など、のたまへど、「めづらしきこと」とて、うち出で聞えむ物語もおぼえねば、かしこまりたるやうにて、みな、いと涼しき勾欄に、背中おしつつ、さぶらひ給ふ。
(『源氏物語』常夏巻)


光源氏は、この釣殿で夕涼みがてら、桂川の鮎や近くの川で獲れた「いしぶし」といった魚を前で調理させたり、高欄に背中をもたせかけて、池の上を吹いてくる風に涼をとっています。

とはいえ、やはり夏の暑さはすさまじく、物語にはしどけない格好の姫君たちが登場しますが、それもまた夏の風物詩です。





夏の暑さを乗り越えるための「水無月」。


和菓子で季節を味わうのもいいものですね。



子供の邪気祓い・端午の節供 [年中行事]

江戸砂子年中行事 端午之図.jpg
[引用]江戸砂子年中行事 端午之図


鯉のぼりの季節になりました。
旧暦の5月5日は、端午の節供。
ぷるんとしたもちもち粽が魅力的な時期です。
個人的には、プレーンタイプが好きです。


端午の節供は、五節供の1つ。
中国から伝わった行事です。

この日に、菖蒲(ショウブ)蓬(ヨモギ)を摘み、家や門に飾ったり、お風呂に菖蒲を浮かべて入る「菖蒲湯」の風習が残っています。

中国の『楚辞』「沈江」に、

よもぎなどの悪草を床に入れると、邪気を払う。


とあります。
原文は、ブログ上では字が正しく表示されないので引用しませんが、戦国時代から漢代にかけての時代には、匂いのある薬草によって、邪気を払うという風習があったことがわかります。

宋代の詩にはすでに端午の節供の模様が描かれています。

粽團桃柳、盈門共壘、把菖蒲、旋刻個人人。
(秦觀)


同じ「菖蒲」でも、ショウブはサトイモ科で、アヤメはアヤメ科の植物。
現在、端午の節供ではアヤメ科の「花菖蒲」を飾っていますが、本来はショウブです。
ショウブの精油には、鎮痛・血行促進・保湿効果、利尿効果や解毒作用があり、『神農本草経疏』では草部の上品として挙げられています。
菖蒲汁を酒にいれた「菖蒲酒」や湯にひたした「菖蒲湯」はこの薬効を期待したもので、アヤメにはこのような薬効はありません。
ビジュアル的にはアヤメの方が美しいですが、お間違いなく。

一方、ヨモギはキク科の多年草。
「蓬湯」にも血行促進作用があり、肩こりや腰痛、神経痛などに効果があります。

なお、これらには薬効成分があるので、妊娠中の方や体調のすぐれない方は、ご利用にあたっては医師の指示に従ってください。


ショウブの香りも独特ですが、ヨモギも同じです。
その独特の香りは邪気を払うものとして意識されてきました。

節供は旧暦なので、新暦になおすと、だいたい6月中旬。
今年は6月19日になります。
このころは、梅雨前もしくは梅雨に突入し、じめじめした気候で疫病も流行り、心身ともにストレスがたまり体も不調になりがちなので、この時期に神経の緊張をやわらげるこれらの薬草を使って邪気や厄病を遠ざけることは、理にかなっています。


端午の節供にいただく「粽(ちまき)」も、中国から入ってきたもの。

『芸文類聚』巻4には、5月5日の行事の由来として、『続斉諧記』の屈原のエピソードを載せています。
簡単に紹介すると。

屈原は5月5日に汨羅(べきら)の湖に身を投げて死んだ。
楚の人はこれを悲しみ、この日になると、竹筒に米を入れて湖に投げ入れてこれを祭った。
漢の建武の時、白日に忽然と一人の人物が現われた。その人物は三閭大夫と名乗り、君に告げるには、このように屈原を祭るのは善いことであるが、湖には蛟龍がいて、投げ入れた米をぬすんでしまう。
そこで、楝樹の葉で包んで五采の糸で縛り、これを蛟龍の分も加えて2つ投げ入れて祭れと。
これにより、人々は五色の糸と棟の葉で包んだ粽を作るようになった。


また、『風土記』には、5月5日に米を煮たものを「菰葉」でつつんだ「角黍」というものがありますが、この「角黍」は『本草綱目』に「粽心草」ともあることから、「粽」と節供の関係がここからも窺うことができます。


この風習は、『日本書紀』推古紀19年5月5日条に「薬猟」の記事が見えることからも、日本にはすでに奈良時代に伝わっていたことがわかりますが、平安時代にはほぼ現在と同じような形に整えられていることが確認できます。

『伊勢物語』52段には以下のように記されています。

むかし、おとこありけり。人のもとよりかざり粽をこせたりける返事に、
  あやめ刈り君は沼にぞまどひける我は野に出でてかるぞわびしき
とて、雉をなむやりける。


屈原の説話でも、粽は祭祀用のものですが、『伊勢物語』に見える「かざり粽」も食用ではないようです。
「かざり粽」は、洗ったもち米を葉で包み五色の糸で結んだもので、端午の節供に飾ったり贈り物とします。
ここでは「おとこ」が送った「かざり粽」の礼として、「雉」が送られています。

現在でいうと、京都の祇園祭の粽がわかりやすいかもしれません。
祇園祭の粽は、厄除けのもので、1年間家に飾っておき、1年後に八坂神社に返して焼いてもらいます。
神社に返せなかった場合は、家で焼いてもいいということですが、この辺りは神社の方にお聞きした方がいいでしょう。


祭祀用の「粽」にかわって登場してくるのが、「かしわ餅」です。
柏の葉で包んだ、さっぱりした味はいくらでもお腹に入りそうですね。

この柏に関しては、『本草綱目』巻5に、

栢葉上露、菖蒲上露並びに能く目を明かにするに旦旦としてこれを洗う。


とあることから、これまた薬草です。
しかも菖蒲と共に登場することが興味深いです。


なお、現在では、関東地方では「かしわ餅」で、関西地方では「ちまき」を食べるようです。




節供のようすを描いた作品をもう1つ紹介すると。

『枕草子』39段に、

節(せち)は五月にしく月はなし。菖蒲(さうぶ)・蓬(よもぎ)などのかをりあひたる、いみじうをかし。九重の御殿の上をはじめて、いひしらぬ民のすみかまで、いかでわがもとにしげく葺かんと葺きわたしたる、なほいとめづらし。いつかは、ことをりにさはしたりし。
空のけしき、くもりわたりたるに、中宮などには、縫殿より御薬玉とて、色々の糸を組み下げて参らせたれば、御帳たてたる母屋のはしらに、左右につけたり。


とあります。

『伊勢物語』の「かざり粽」と同様に、「薬玉」も節供には欠かせないもの。
元々、ショウブやヨモギなどの薬草を戸口に挿して邪気祓い・厄除けとしていたものが、やがて薬草を玉のように結び、五色の糸をたらしたものに変化していったわけです。

五色は、陰陽五行説にみられる、5つの色。
青・赤・黄・白・黒。

神事などにはよく見られます。
この五色は森羅万象をあらわしたもので、これにより安定と邪を祓う力を持つと考えられてきました。
鯉のぼりの1番上にたなびいている吹流しも、この五色になっているはずです。


江戸時代になると、菖蒲が「尚武」に通じることから「男の子の節供」として定着し、武運栄達、健やかな成長を願う行事として、鯉のぼりや鎧兜が登場してきます。

が、元来は、邪気祓い・厄除けです。


この辺りに神事や行事の変遷が見られて、おもしろいですね。


ちなみに、この時期の神事として有名なのが、京都・葵祭の前儀である、上賀茂神社の「競馬会神事(くらべうまえしんじ)」

欽明天皇の御代に飢餓疫病が流行したために、天皇が勅使をつかわして「鴨の神」の祭礼を行ったのが葵祭の起源とされています。
上賀茂、下鴨両神社は、京の都を護る神社で、上賀茂神社には、川上のいわゆる祟り神も祭られており、都を災厄から護るという役割が窺えます。
気になる方はチェックしてみてください。

葵祭では、牛車の牛を含め、関係者全員がアオイの葉をかざしています。
上賀茂神社の「競馬会神事」は、葵祭の無事を祈り奉納されるものですが、この時に馬につけられているのは、菖蒲


こういうところに、端午の節供との関連を見るのも楽しいですよ。


無病息災・年末年始の行事 [年中行事]

板前魂おせち.jpg
[引用]板前魂おせち


1年の節目である年末年始の行事は、もっとも家庭に定着しているものでしょう。
大掃除にお節料理、お雑煮の違いなどメディアでもよく取り上げられます。


年末行事は、だいたい12月13日から始まります。

京都では、12月13日を1年の区切りとして、花街や室町、西陣の旧家ではこの日からお正月の準備を始めます。
1年の感謝をこめて、本家や得意先などに挨拶に回りますが、花街では、祇園甲部の芸舞妓さんたちは、それぞれに家元に挨拶に行き、ご祝儀の舞扇を受けて精進を誓います。



江戸時代には、この日に門松用の松を山から切り出してきたり、家の中の大そうじを始めたそうですが、家のそうじが遅れても、神だなや仏さまの「すす払い」は必ず行われていたようです。

現在は、13日では早すぎるのか、西本願寺・東本願寺のすす払いは、12月20日。
その他の神社仏閣でも、20日過ぎに行なわれています。



年末の買出しも、大切です。
12月の中ごろから年末にかけて、お正月のおくり物やえんぎもの、日用品を売る市が立ちます。
京都でも、東寺の終い弘法が12月21日に、北野天満宮の終い天神が12月25日にあり、毎年賑わっています。




31日になると、いよいよ忙しくなります。



京都では、大晦日、除夜の鐘をききながら八坂神社におけら参りに行きます。
おけら参りは、京都に伝わる正月迎えの行事です。

12月28日に八坂神社で「鑚火式(さんかしき)」が行われます。
おけら参りの火種を起こす神事で火のつき方などで翌年の吉凶を占います。
午前5時、宮司が桧の杵と臼で浄火を鑽(き)り出し、「おけら灯籠」に移します。
その火は本殿内に年中絶やすことなく灯しつづけられます。

大晦日、八坂神社では午後3時より「大祓式」が行われ、午後7時に「除夜祭」が行われ、祭典後、境内3ヶ所の「おけら灯篭」に「おけら火」を移します。

「おけら参り」の名の由来は灯篭に厄除けに効果があるとされる朮(おけら)の根茎がくべられることからくるもので、参詣者は、このおけら火を竹の繊維でできた「吉兆縄」(これは古い言い方で、現在は「炭火縄」と呼ばれています)に移し、途中で火を消さないようにくるくると回しながら持ち帰ります。
そして神棚の灯明につけ、元旦の大福茶や雑煮の火種として用い、1年の無病息災を願います。
燃え残った火縄は「火伏せのお守り」として、台所などにお祀りします。

おけらの根は古くから漢方の健胃薬として知られています。
山野に生えるキク科の多年草で、かつては京都市周辺の山麓に広く自生して、大原女が売り歩いたと言われますが、若芽は軽くゆでてからゴマ和えなどにするとおいしいようです。
おけらは火で燃やすと臭いが出るので、疫神を追い払うと考えられていたようです。

このおけらは、平安時代より正月の行事に欠かすことのできない屠蘇散(とそさん)にも主薬として配合されています。



大晦日から元旦にかけては、眠りません
夜通し眠らないで、いろりの火を燃やしつづけ、ごちそうを準備して「お正月さま」「年神さま」をむかえます。

なので、「初夢」は、1月1日から2日にかけて見る夢のことです。



そして、このお節料理の準備をしている頃に食べるのが、「年越しそば」。

大晦日の夜にそばを食べるのは、細く長いそばを食べることによって、長生きができますように、新しい年に家族みんなが健康で幸せにくらせますように、という願いをこめたものです。






そして、元旦。


朝、家族がそろい、新年の挨拶。




そして、お屠蘇を飲みます。


お屠蘇は、日本酒でも、金粉入りの日本酒でも、ワインでもありません。
薬膳酒です。

正式には「屠蘇延命散」「屠蘇散」といい、十種類近くの薬草を合わせたもので、日本酒やみりんに浸して作ります。


お屠蘇を飲む習慣は、主に西の地方に多いようですが、元旦に飲むと1年の邪気を避けるといわれる飲み物です。
お屠蘇に含まれている薬草には、風邪を防ぎ、消化機能を整え、身体を温める作用があることから、お正月に無病息災を願って飲むわけです。


これは、中国から伝わった風習。
「三国志」にも登場する魏の国の名医「華佗(かだ)」の処方という説が有力です。
『本草綱目』には、

陳延の小品方に云く、此、華佗の方也。


とあります。


一般に広まったのは、唐代。
風邪予防のために作った屠蘇が、おいしいとの理由から急速に広まったそうです。

名前の由来はいろいろありますが、李勝という医者が、屠蘇で人を治し、その医者の住んでいた家が「屠蘇庵」という名だったというものもありますが、屠蘇の「屠」は「殺す」という意味、「蘇」は鬼の名前で、病を起こす鬼の総称であって、細菌を殺す、つまり伝染病の予防の意味があります。


日本に伝わったのは平安時代。

嵯峨天皇の時代、元旦に宮中の儀式として用いたのに始まり、次第に一般に普及して、新年の始まりの習慣として定着しました。


屠蘇の処方はさまざまですが、素材と効能は以下のような感じです。



・山椒:健胃、抗菌、利尿
・白朮:健胃、鎮痛、利尿(←おけら参りの「おけら」はこれ)
・防風:発汗、解熱、抗炎症
・桔梗:排膿、痰を去る
・陳皮:健胃、咳を鎮め痰を去る、吐き気を止める
・桂皮:健胃作用、発汗・解熱、鎮静・鎮痙


全体として胃腸の強壮と風邪の予防の総合薬みたいなものですね。
屠蘇散は、薬局や漢方薬を売っているお店で市販されているので、気になる方はチェックしてみてください。


昔から「お屠蘇」は幼少のものが、まず一番に飲む事になっています。
これは、中国の『礼記』に依るもので、親が病気になった時には、まず、子供達が薬をなめる、すなわちお毒見をすると書かれています。

お屠蘇を盃にそそぐのは最年長の人。
だいたい、一家の家長の役割です。
飲む順番は、若い人の生気を年長者に渡すという意味で、年少者から年長者へと盃をすすめるのが決まりとなっています。厄年の人がいる場合は、最後に厄年の人が飲みます。
これは、「厄年以外の人達が口にした盃は災いを追い払うことができる」といわれるためのようです。
なので、屠蘇器を厄年の厄払いをする道具とする地域もあります。


中国の医書『千金要方』には、

屠蘇酒は疫気を辟け、元旦に温病や傷寒の病気にかからないための処方。


とあり、内容を要約すると、

(大黄など)7つの薬を砕いて細かくし、袋に入れて、12月の晦日に井戸の中にかけておき、正月一日の朝に薬を出して、酒の中に入れて少し沸かす。そしてできた屠蘇酒を、東を向いて飲む。このとき、年の若い者から順に飲み、一家の無病息災を願う。


と、元旦の薬酒として定着していることが窺えます。

このことは、近世の京都の豪商の日記にも出てきます。


つまり、例えば9月の重陽の節句で菊を浮かべたお酒を飲むように、お正月のお屠蘇も、節目ごとに健康のために飲む薬というわけです。



お屠蘇を飲むと、同じ人(最年長者)から、手のひらに田作りを乗せてもらい、それを食べます。
田作りでない場合もあると思います。


ちなみにお節料理の意味は。


・黒豆:まめ(健康)に暮らせるように。
・数の子:子孫繁栄。
・田作り:(江戸時代の高級肥料として片口いわしが使われたことから)豊年豊作祈願。
・昆布:よろこぶ。
・海老:長寿。
・かち栗:勝つ。
・鯛:めでたいに通じる語呂合わせ。
・橙(ダイダイ):代々に通じる語呂合わせ。子孫が代々繁栄するように。
・ごぼう:地に根を生やすように。
・里芋:(里芋は子芋がいっぱいつくことから)子宝にめぐまれるように。
・栗きんとん:(色から)財をなす。




ちなみに私は、伊達巻とくわいが好きです。




もうすぐお正月。

今年のお正月は、年中行事に注目しながら行なうのもよいかもしれません。



ちなみに、奈良の橿原神宮では前年に初詣に行き、初穂料をおさめると、お正月間近になると屠蘇散が送られてきます。
今年も初詣に来てくださいね、ということでしょうが、この心遣いがなぜかとても好きです。


菊で長寿・重陽の節供 [年中行事]

着せ綿・京都五感処-京都Loversフォーラム.jpg
[引用]京都五感処


9月9日は、重陽の節供です。

重陽の節供は「菊の節供」ともいい、春の桃、初夏の菖蒲と同様、季節を代表する花が配されています。
といっても、今の時期、菊もつぼみ程度ですから、あまりぴんと来ないかもしれませんが。


重陽の節供は、五節供の1つで、1月7日の「人日(じんじつ)」の他は、重日思想に基づき日付が固定された祭日。
祭日は旧暦(陰暦)なので、新暦になおすと、10月末から11月はじめにあたり、今年(2006年)でいうと10月30日ですから、ちょうど菊の開花時期と重なるわけで、確かに「季節を代表する花」なんですね。



この重陽の節供については、中国の影響を無視するわけにはいきません。


農耕社会では、生活の節目が行事と結びついています。
中国の年中行事も、ちょうど耕作や収穫、体の不調が多くなる時期と合っていて、たとえば、

春節:冬の農閑期
元宵節:正月の慌しさが終わる時期
清明節:春の耕作と夏の耕作の間
端午節:一度目の収穫時期
中元節:暑さが体にこたえる時期
中秋節:一年最後の収穫時期
重陽節:冬を迎える準備時期
冬至:冬の寒さが去る時期

という感じです。
このことは、以前、京都・祇園祭の話などのところでも書きましたが、行事は共同体を統括する上で必要不可欠なものなので、だいたいこのような形に落ち着くのでしょう。

また、行事には「幸福祈願」「厄除け」といった特質があります。
節目節目に祈願することによって、次につなげていくわけですね。


重陽の節供は、中国では「重陽節」
陰暦の9月9日。

「重」は重なる意味で、「陽」は太陽の意味。
数でいうと奇数で、月と日がともに陽の数の最大である9が重なるところから、「重陽」と名づけられ、また「重九」とも称されました。
古代中国では、9を陽数として、吉祥、幸福、光明の象徴に考えていて、重陽の「九九」もまた、中国語の「久久」と同音となることから、長久平安の意味も付され、重要視されていたわけです。

重陽を祭日にしたのは、東漢の時代。
梁の呉均が著した『続斉諧記』には、

東漢の時に汝南の桓景という者が、費長房という道士に師事し、学んでいた。
ある日、費長房は、
「9月9日に、おまえの家は災いに襲われるから、急いで家族にそれぞれ、絳嚢(うすい赤絹の小さな袋)に茱萸の実を入れてひじにかけ、高い所に登って菊花酒を飲むように。そうすれば災いを除くことができる」と桓景に伝える。
桓景の家族がその通りに従い、夕方になって家に帰って見ると、鶏、犬、牛、羊といった家畜が全部死んでいた。
それから、9月9日になると、高い所に登って菊花酒を飲み、女性は袋に入れた茱萸を持って、邪を避け災いを除く風習が始まったという。


と、その由来を紹介しています。

また、漢の武帝の時代になると、茱萸(しゅうゆ)(和名:カワハジカミ)を帯び、菊花酒を飲むだけでなく、豆を蒸したもの(『西京雜記』)、また黍や黏米に味を加えたもの(『玉燭寳典』)なども食べるようになったことが記されています。
これは、古代日本において、春や秋の薬草摘みや、予祝・収穫の祭が、やがてピクニックのような行楽に変化していったように(同様の風習の変遷は、もちろん古代中国にもあります)、厄除けの風習が、行楽の要素を兼ね備えつつ、人々の間に定着していったことを示しています。

唐の時代になると、重陽節に高い所に登り、菊を賞で、茱萸を挿す風習は、とてもポピュラーなものになり、友人たちが集まって歓談し、飲酒して詩を詠じるのは、すでに行事のひとつになってきました。


そういうオプションの由来や理由は、また置いておくとして。

菊花酒を飲むのと長生きをするということは、白居易の「重陽の席上で白菊を賦す」などにあるように、すでに行事としての定着していることがわかります。
ちなみに中国で菊は「翁草(おきなくさ)」「千代見草(ちよみくさ)」「齢草(よわいくさ)」と言われ、邪気を祓い長生きする効能があると信じられていました。



一方、日本ではというと。


他の節供と同様、中国から平安時代の初期に伝来し、始めは宮中行事として行われたものですが、風習が伝わったのは、もう少し遡ります。

菊が長寿と結びついていること、また、ちょうど衣替えの時期でもあったことから、日本では、重陽の節供の前日から菊の花に綿を巻き(着綿)、菊の香りと菊の花に着く露をその綿に移して、この菊の露入りの綿で身を清めるという、独特の風習が生まれました。

しかし、これはまだ限られた人たちの風習で、五節供のひとつとして広く定着したのは、江戸時代から。
中国では、菊を賞でる風習は北宋の時代にも盛んで、清の時代には空前の賞菊会ブームがわきおこりましたが、日本の江戸時代でも、同じように菊の品種改良コンテストが盛んになりました。



重陽の節供と、同義語なのが「粟の節供」。

平安時代以前は、秋の収穫が行われる時期に、栗ご飯などで祝う風習がありました。
つまり、もともと日本にあった収穫祭の風習に、中国の「重陽節」が入り、両者が結びついて、年中行事として定着していったわけです。


呼び名も月日も、中国のものが導入されましたが、こうして、日本と中国で比較すると、それぞれの特徴がよくわかりますね。



京都の上賀茂神社では、9月9日に「烏相撲(からすすもう)」や「菊の被綿(きせわた」といった無病息災を祈る神事がとりおこなわれます。
興味のある方は見学に。


子どものまつり・地蔵盆 [年中行事]

地蔵盆といえば、夏休み最後のイベントです。

線香を片手に、子供だけで町内の地蔵を回り、線香をお供えしてはお菓子をもらう。
大きくなり、自転車に乗れるようになると、隣の地区まで出張するツワモノもいたけれど、家に持って帰って、みんなで分け合った・・・これぞ、夏の思い出。(遠い目)

地蔵菩薩.jpg

地蔵盆は、地蔵菩薩の縁日である8月24日の前日にあたる宵縁日を中心とした3日間のまつり。
昔は地蔵祭とか地蔵会(じぞうえ)などと呼ばれましたが、8月24日が裏盆にあたることから、盂蘭盆になぞらえて地蔵盆と呼ばれるようになりました。

地蔵菩薩は、釈迦の入滅後、未来仏の弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩とされています。

日本では、平安時代以降に阿弥陀信仰と結びつき、地蔵信仰が民間に広がり、道祖神と同じように村を守る役割も果たすようになります。そして、地獄の鬼から子供を救うとして子供の守護神ともなっています。

そこから全国に地蔵菩薩が広がり、関東では、江戸時代になって地蔵が作られるようになり、地蔵信仰も広まりました。
が、江戸では稲荷信仰が盛んだったため、あまり根付かず、一方、室町時代に地蔵盆が盛んだった京都を中心に、大阪や滋賀などの関西では、年中行事としてしっかりと根付き、今では、北陸地方や新潟、長野などで盛んに行われていますが、おおむね近畿地方を中心とした行事です。

地蔵菩薩は子供の守護神であり、地蔵盆では子供が地蔵の前に詣り、その加護(無病息災)を祈る、仏教行事でもあるので、地域によっては、子供に向かって僧による読経や法話も行われたり、地蔵盆当日の朝に「数珠回し」が行なわれるところもあります。

地蔵盆では、地蔵のある町内では地蔵を洗い清めて新しい前垂れを着せたり、化粧や飾り付けをし、地蔵の前に屋台を組んで花や灯籠を立てたりお供え物をしたりします。
そのお供え物は、線香などのお供えの代わりに子供に配布されるもので、子供の目当ては、これ、ですよね。
(線香を供える、というのも地域によって違います)

神戸では、お供えを配ることを、「お接待」といいます。

「お接待」といって、すぐさま思い浮かぶのは、四国巡礼のお遍路への「お接待」。

「お接待」には2つの意味があり、

(1)修行に取り組む人に対しての「援助」、「施し」。
(2)「自分の代わりにお参りしてほしい」という意味での賽銭の寄託。

などです。
(1)の「施し」も「喜捨」という信仰心ですし、(2)の賽銭の寄託とは、気持ち的には重なり合っています。
四国では、このお大師様(弘法大師空海)に対する信仰心である「お接待」は、お遍路に限らず今も見られます。
私も体験しました。そのときの印象は、(2)ですね。
自分の代わりに、お参りに連れて行ってほしいというもので、託された方としても、気の引き締まる思いでした。


と、少し脱線しましたが。
地蔵盆で、子供が地蔵をひとつひとつ訪ねる行為は、単にお供え(お菓子)のお下がりの確保などではけっしてなく、無病息災を祈るお参りだということが、ここでよくわかります。


しかし、子供のまつりであるだけに、地蔵盆はいろいろな問題もかかえています。
つまり、子供が少ないと、成り立たないわけです。
(おとなだけで行なっている地域もありますが)

京都では、一時期、地蔵盆が衰退した時期がありましたが、開発に伴い人口が増加。子供の数も増えて、近くの地区から地蔵を借りて地蔵盆を行なっていたところもありました。
が、その子供も大きくなれば・・・。

多かれ少なかれ、同じような問題をかかえているところは多いと思います。


また、コミュニティーの問題もあります。

新しい住民が入ってきても、地域の活動に協力的な人ばかりではありません。
特に、家族に子供がいなければ、地蔵盆に参加することも少ないでしょう。特に近年の深刻な少子化問題で、参加人数は減少しています。それでも、地蔵盆の設備などを管理しなければなりませんし、管理にはある程度のスペースも必要。
となると、管理・維持をする人が限られて、特定の人への負担が大きくなるわけです。

なんだか、ここまでくると、地蔵盆消滅の危機ですね。


地蔵盆って、けっこうコミュニティーの活性に良いと思うんですが。
経験上、地域への愛着とか、地域の人とも仲良くなれるきっかけがあるので。


こういう風習は、残していきたいものです。


タグ:地蔵盆

お盆行事・精霊馬 [年中行事]

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お盆です。
現在は、8月15日前後を「お盆」として、墓参りをしたり故郷に帰省しますが、元々、陰暦7月13日から15日ごろを中心にして行われる先祖祭りのことで、明治に陰暦(旧暦)から陽暦(新暦)に変わったことから、現在の8月に行なわれるようになったと考えられます。

さて、この「お盆」行事の由来については、主に2説あります。
(1)仏教の盂蘭盆会を由来とするもの。 (2)日本古来の春・秋の魂祭りを由来とするもの。

(2)の説は、柳田国男『先祖の話』にあるものですが、春・秋の祭りといえば、日本のみならず、農耕社会においては、春の予祝と秋の収穫に関する行事は今も残っているかと思います。つまり、穀物の生命に関する祭祀が、やがて、その穀物によって生かされる人間の生命と結びついて、祖先信仰などと関連づけられる基盤ができあがったのでしょう。
これを基盤にして、仏教の盂蘭盆会が習合し、現在の「お盆」行事になったと考えられます。

盂蘭盆会は、盂蘭盆経による仏事です。
盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、「倒懸(さかさにかかる・さかさづり)」を意味しており、つまり「逆さまに吊り下げられるような苦しみにあっている人を救う法要」という意味です。『盂蘭盆経』には、

安居の最中、釈迦の弟子で、神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった。
哀れに思い、釈迦に方法を問うと、「安居の最後の日に、飯・百味・五果(李・杏・棗・桃・栗)汲灌・盆器・香油・錠燭・床敷・臥具をととのえ、すべての比丘に食べ物を施せば、母親も三塗(地獄道・畜生道・餓鬼道の三悪道)の苦を出て解脱し、その施しを受けることができるだろう」と答えた。その通りに実行し、母親を救った。


といったことが書かれています。
『盂蘭盆経』は、インドのものではなく、仏教が中国に伝播する間に成立したものといわれますが、日本には飛鳥時代には盂蘭盆会が導入されていることが確認できます。

季節柄、夏には疫病や災厄が蔓延し、死者が続出していることとも関係があるでしょうね。
京都・祇園祭も、元々は「御霊会(ごりょうえ)」といい、都に蔓延した疫病や災厄の正体を、政変の犠牲となり、非業の死を遂げた怨霊の仕業とし、その魂を慰撫し鎮める祭礼ですし、そういう魂を祭る季節であったともいえます。

お盆といえば、13日の朝に、霊を迎えるための精霊棚(しょうりょうだな)を作り、台の上に真菰(まこも)で編んだゴザを敷いて、精霊棚の奥中央に先祖たちの位牌を安置します。
位牌の前には、なすやきゅうりで作った牛や馬を供えます。
そして、近所にお墓がある場合は、お墓の掃除と、先祖が通りやすいように、お墓から家までの道の草刈をしたりします。また帰る家がわかりやすいように、盆灯籠を吊ったり、迎え火を焚きます。
迎え火を焚く場所は、家の門口や庭先、道の辻、墓地などが一般的に多く見られますが、このときに使われるのは、一般には「苧殻(おがら)」という麻の茎を乾燥したものが多いです。

14日か15日に僧侶を招き、お経や飲食の供養をします。
お供えものは、地域によって様々ですが、献立は毎日変わり、家人も同じもの食べます。
おおまかには帰ってきた先祖が、環境の変化になじみやすいような配慮をした献立が主でしょう。あの世から着いたばかりの13日は、あの世の味に似せて精進系、それからだんだんと現世の味に変えていき、またあの世に戻っていく16日は、あの世の味に戻していく、という感じです。

16日には、迎え火を焚いたのと同様に、送り火を焚くことも広く行われています。京都の五山の大文字(大文字焼き)が有名ですね。

なお、お盆には、きゅうりの馬となすの牛というものをつくりますが、この由来はあまりわかりません。
いわゆる「精霊馬(しょうりょううま)」と呼ばれるもので、「先祖の乗り物」などといわれますが、元々は、「真菰の馬(まこものうま)」といった、真菰で作っていたと思われます。
以前には真菰で精霊馬を作っている地域もあったといいますし、おそらく、そうではないでしょうか。

ここからは単なる私見(憶測)になりますが。

「真菰の馬」といえば、七夕の夜に織り姫と彦星が馬に乗って再会できるようにと願い、真菰で作った1対の馬のことをいい、別名「迎馬(むかえうま)」とも呼ばれますが、精霊棚を作るときに真菰で編んだゴザを敷きますが、その時に一緒に作ったのでしょう。

しかし、それがやがて、棚にお供えしていた季節の野菜、つまりウリ科(きゅうり・なす)の野菜に変わっていったと考えられます。
きゅうりやなすに、迎え火用に用意した苧殻の足を作るほうが簡単といえば簡単ですし、真菰の「菰」に「瓜」の文字が入っているなどと、強引ながらも、言葉遊びのような理由付けもできなくもありません。
実際に、真菰は食用もありますし、マコモタケなどは、なかなかぷりんとした形です。収穫時期が9月下旬以降なので、マコモタケと、きゅうりとなすの関係はありませんが。

こういう風習を残していきたいものですね。


タグ:お盆 精霊
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