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シキミの祓い・正月の仏壇 [民俗・行事]

しきみ.jpg

正月が近くなると、仏壇の掃除や花などを取り替えたりすることも多くなると思います。

無病息災・年末年始の行事でも紹介しましたが、京都では12月13日を1年の区切りとして、この日からお正月の準備を始めます。
江戸時代には、この日に神棚や仏の「すす払い」を行っていたようで、現在の西本願寺・東本願寺のすす払いは、少し遅れた、12月20日。その他の神社仏閣でも、20日過ぎに行なわれています。

新年を迎える準備として、神棚を整え、仏壇の準備をするのは、いわば正月の風物詩かもしれません。


先日、我が家でも墓参りのついでに、仏壇用のシキミを持ち帰ってきました。




このシキミ、漢字では「樒」と書きますが、仏前に供える木として知られています。

モクレン科シキミ属で、分布地は本州以南。関東地方から琉球にかけて生育します。
常緑低木で、3~4月頃に花をつけ、葉は10センチの長楕円で光沢があり、その匂いはいわゆる「抹香くさい」といわれるように、抹香や線香の原料となります。(数珠にも用いられるそうです)
つまり、シキミを供えることで、お香を焚くのと同じ効果があるというわけです。

有毒植物で、特にその実は非常に強い毒性があるので、扱いには気をつけなければなりません。

「シキミ」の名は、実の形から「敷き実」が語源といわれる他、「悪しき実」の「あ」が取れたものといわれ、有毒ということで、動物が墓を掘り起こさないために植えられているといった説もあります。

確かに、シキミの葉や木を燃やすと、死臭も消すほど強い匂いを放つため、そのような用途に使われていたと考えられます。


シキミの匂いは、『源氏物語』や『枕草子』でも「いとおかし」と称されていますが、これは風情があるといっているのではなく、シキミが焚かれる場面をふまえて、婉曲にその匂いの強さを語っているものと思われます。



『万葉集』に次のような歌があります。

奥山の が花の 名のごとや
しくしく君に 恋ひわたりなむ
(大原真人今城 『万葉集』20-4476)


「奥山のシキミの花の名のように、私はこれからもしきりにあなたに恋いつづけるんだろうか」ということで、シキミが山の奥にあることがわかります。

シキミ自体は、山の奥深くに生えていることが多く、そのため、そこに人が葬られることも多いでしょうし、香木の効果を経験的に知っている人たちの間で、虫除け・動物除けの効果を期待したと考えることもできるでしょう。



有毒植物とはいえ、毒と薬は紙一重で、薬効もきちんとあります。
そのため、節分の豆を煎る際に、シキミの葉を1枚入れると魔がつかないといわれます。

ただ、薬効があるとはいえ、扱いには注意が必要であることを忘れずに。
シキミの実は、毒物及び劇物取締法で劇物に指定されていますので、無届で販売したりすると罰せられます。





仏壇には、だいたいシキミが供えられています。

一般的に、神さまごとには「榊」を、仏さまごとには「シキミ」といわれますが、現在は、シキミを入手することが難しいらしく、仏壇に榊を供えるところも多いようです。
シキミと榊は似ているので、間違って買う方も多いようですが。


もともとシキミは、『真俗仏事論』2に、

の実はもと天竺より来れり、本邦へは鑑真和尚の請来なり、其の形天竺無熱池の青蓮華に似たり、故に之を取りて仏に供す


とあるように、シキミの葉を蓮華の代用としていたわけです。
そのため、現在もシキミを仏に供えるわけで、

、閼伽の水汲みて参りたる女
(『花伝書』6)


と仏との関連が深いことがうかがえます。


しかし、このシキミは仏教であれば、宗派問わず供えられていたわけではありません。



日本の仏教の宗派は「十三宗五十六派」と言われていますが、時代的にはだいたい以下のように分けられます。

奈良時代=法相宗・華厳宗・律宗
平安時代=天台宗・真言宗
鎌倉時代=浄土宗・浄土真宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗・
        融通念仏宗・時宗
江戸時代=黄檗宗

それぞれの説明は、以下などを参照してみると良いです。

[参照]日本の仏教について
http://www.geocities.jp/zuigan495/somo2.html


現在ではその形も変化しているでしょうが、その教義などをあわせて見るとだいたい次のようになるでしょう。

浄土宗や浄土真宗は花は供えています。
華厳宗では、いわゆる東大寺では椿が供えられていましたので、花を供えることはあったようです。
禅宗(臨済宗や曹洞宗など)や日蓮宗は花も木も供えません。


では、シキミを供えるのは、どの宗派か、ということになりますが。

シキミは、修験道などの密教神道系である天台宗や真言宗の仏教儀礼にみられます。


天台宗の法華三昧懺儀、いわゆる法華懺法(法華三昧ともいう)では、シキミが儀礼の中に登場します。

懺法(せんぽう)とは、天台大師・智(ちぎ)によって制定されたもので、法華懺法の他、金光明懺法や方等懺法、請観世音懺法などが有名です。

懺は、梵語の懺摩の略で、罪を悔い改める意味で罪を心に固く忍び、はっきり認めること。悔とは、漢語で過去の罪を悔い改める義で、懺法とは、懺悔のことを指します。

法華三昧行法が基本となっており、『法華経』を読誦することによって、自らの罪を懺悔する修法です。
現在の法華懺法の形式を完成したのは、円仁です。

天台では、罪を悔い改めることにより身心の清浄を得、現世において仏心を成ずる課程に入るということで、大切な儀礼であり、この儀礼は、雅楽の伴奏で唱えられる荘厳華麗なもので、御白河法皇以来、宮中においては重要な法会となっています。


この法華懺法において、儀礼が成就したときに、仏が、また仏を祝福する印のものとして、ざるに入れたシキミを道場中にまきます
ここにシキミが登場します。

つまり、シキミは、天台宗の重要な仏教儀礼において用いられるものであり、このようすは、法然上人絵伝などにも見られます。



シキミを請来したのは鑑真と先に記しましたが、鑑真は、律宗と天台宗兼学の僧です。
鑑真によって天台宗関連の典籍が日本に入ってきたので、「鑑真による請来」というのも納得です。

天台宗は、平安時代に盛んになりましたが、これは、『源氏物語』に仏教儀礼に伴ってシキミが描かれていることからもうかがえます。

「(略)回向には、あまねき方にても、いかがは」
とあり。濃き青鈍の紙にて、にさしたまへる、例のことなれど、いたく過ぐしたる筆づかひ、なほふりがたく、をかしげなり。
二条院におはしますほどにて、女君にも、今は、むげに絶えぬることにて、みせたてまつり給ふ。
(『源氏物語』若菜下)


源氏は、朧月夜が出家したことに対し、手紙を出します。
内容は、かわいい恨み言という感じです。

「出家を望みながらまだ出家できていない私(源氏)を、(私に黙って出家してしまうように)あなた(朧月夜)がどんなに冷淡になっていても、さすがに回向の人数の中には入れてくださるだろうとたのみにされるところもあります」というもの。
それに対し、朧月夜もこれまでの2人の関係を思い返し、「回向には、この世のすぐれた方として、けっしてあなた(源氏)をもらしはいたしません」と答えています。
その内容が、濃い鈍色の紙に書かれて、シキミの枝につけてあったわけです。

これは、仏門に入る朧月夜の立場を演出するのに、シキミが登場します。

御かたはらなる、短き几帳を、仏の御方にさし隔てて、かりそめに添ひ臥し給へり。
名香の、いと、かうばしく匂ひて、の、いと、はなやかに薫れるけはひも、人よりは、けに、仏をも思ひ聞え給へる御心にて、わづらはしく、「墨染の、今更に、をりふし、心いられしたるやうに、あはあはしく、思ひそめしに違ふべければ、かかる忌なからん程に、この御心にも、さりとも、すこし、たわみ給ひなん」など、せめて、のどやかに思ひなし給ふ。
秋の夜のけはひは、かからぬ所だに、おのづから、あはれ多かるを、まして、峯の嵐も、籬(まがき)の虫も、心ぼそげにのみ聞きわたさる。常なき世の御物語に、時どき、さしいらへ給へるさま、いと、見所多く、目やすし。
(『源氏物語』総角)


仏の存在とともにシキミの香りが漂っています。
これも、仏教とシキミの関連をうかがわせます。



このように、シキミは仏教、特に、密教系の天台宗や真言宗の仏教儀礼と深い結びつきがあるわけです。

南北朝から室町時代あたりになると、中世的な神道と習合した天台宗は、修験者をつうじて全国に広がっていきます。
もちろん、その時代によって宗派の勢力というものがあり、その影響のもと、いろいろな宗派の教えが蓄積されて、現在の風習になっているので、シキミを供える風習も一般化していったのだと思います。




仏壇を整えながら、我が家の仏教を思うのも楽しいかもしれません。
特に文化交流の盛んだった地域では、とても深い文化層を見ることができるかもしれませんね。


中秋の名月・月と収穫祭 [民俗・行事]

陰暦の8月15日を「十五夜」「中秋の名月」といいます。


「中秋」とは、陰暦8月15日をさし、この日が陰暦の秋である7・8・9月のちょうど真ん中にあたることから、「中秋の名月」とはその時期に出る月(満月)のことをさします。
一方、「仲秋」と書くと、陰暦8月のことをさします。

陰暦での四季は、1~3月が春、4~6月が夏、7~9月が秋、10~12月が冬。
その季節の3ヶ月を、それぞれ孟・仲・季と分けるため、8月は「秋」の季節の「仲」ということで、「仲秋」となるわけです。


中秋に月を愛でる風習は、中国の「中秋節」に由来します。

八月十五日、中秋節と為す。
各家皆、月餅・酒醴(甘酒)をもって、福神を祀り、並びに祖先を祀る。
(「風俗志」)


中国のお菓子・月餅は、月見の際に食べるお菓子です。
「風俗志」には、月餅をつくり、「骰子」(サイコロ)6枚を4~5回振り、兆しを見るなどの様子が描かれ、また、福神を祀るにあたり演劇をもって行うことや、歌をうたうことなどが記されています。




このような月に祈りを捧げる観月の風習は、月の神への祭祀でした。



中国の月の神は、常娥(じょうが)という美しい女神。

ゲイという勇士の神の妻となって地上で暮らしていたが、ゲイはあるとき、世界の西の果てにある崑崙山に行き、そこに住む西王母から不死の薬をもらってきた。
しかし、常娥がその薬を盗んで月に逃げたために、人間は不死になることができず、常娥はその悪事の報いで醜いヒキガエルになって、月に住んでいるという。


月面の影になっているのは、そのヒキガエルの姿だといわれます。
カエルは脱皮をしますから、生と再生のシンボルとして不老不死のイメージを付与されたのでしょう。

月と不死との関係は、『竹取物語』などにも影響を与えていますが、この不死の薬を持っている月の女神・常娥は、やがて地母神と混同されていきます。
縄文時代にはすでにその傾向が見られており、このことから、やがて中国の女神の代表である西王母と月の結びつきが強くなってきます。

月にはウサギが住んでいるといわれますが、これは西王母が従えているウサギ(玉兎)から来たものと考えられます。
西王母は、かつては疫病や刑罰をつかさどる女神でしたが、常娥で見られたような不老不死の薬や桃をもつ神として変化しました(「淮南子」)。


西王母が月と結びついたのは、「太陽」「男」「東」を「陽」、「月」「女」「西」を「陰」として、それぞれの方角にある高い山に住まう神に振り分けた陰陽思想と結びついてもいるようです。




また月の月の満ち欠けの反復は、死と再生の観念を結びつき、生命の源泉、豊穣多産のシンボルともなります。


月に祈りを捧げることは、自らの長寿と家の繁栄、豊穣を願ってのことだということがここから窺えます。






この中国の風習が遣唐使によって日本に伝えられると、神仙思想への憧憬と、中国風の宴が積極的に導入され、平安時代には「月見の宴」が盛んに行われるようになりました。



とはいえ、日本に月の信仰がなかったわけではありません。
日本の月の神・月読尊もまた、不老不死と結びついた神です。

天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月読(つくよみ)の 持てる変若水(をちみづ) い取り来て 君に奉りて 変若得しむもの
(『万葉集』13-3245)


「変若水」とは若返りの水のことで、天からの通路がもっと高ければ、月神の持っている変若水を取ってきて、あなたを若返らせてあげるのに、という嘆きです。


日本にも、このように月の満ち欠けから不老不死、果てには死と再生の観念から豊穣のイメージが芽生えていることが窺え、宮中の風流な月見の宴から、秋の収穫祭と結びつくのに、さほど困難はなかったのではないでしょうか。
また、農作物の時期をはかるのに太陽と月の動きを読むことは重要でしたし、欠けたところの無い満月は、豊穣の象徴でもあったそうです。



近世になり、月見が収穫祭が結びつき、庶民層にも農作物を月に供えて名月を楽しむ行事が定着し、陰暦の8月15日の十五夜のほか、陰暦9月13日の十三夜の風習も生まれました。



近世の『大和耕作絵抄』に

こよひの月をもて遊ぶ事、唐の世より盛んなり。
我が朝にも、あまねく歌をよみ詩をつくり、代々のながめつきず。名にたてる月なれば名月といふとかや。十五日は月と日と、ひがしにしに相望むゆゑに望月(ぼうげつ・もちづき)とも申すとなり。
(中略)
十四日の月を待宵(まつよひ)とゆふ。
また十六夜といふて、世にもてはやすはこの月なり。


と月見が盛んであったことが窺えます。




十五夜は別名「芋名月」と呼ばれます。
それは、脱皮から死と生成のシンボルとなったように、皮をむく芋も豊穣のシンボルとなったこと、また、芋は稲作以前の主食であったこともあり、農作物の代表として目されていたようです。
9月は、芋の収穫期でもあります。

収穫したばかりの収穫物を神に捧げ感謝することは、早稲田の稲が初穂として初嘗祭に用いられたように(『万葉集』)、収穫儀礼としての一面も持っていました。





この、芋を月見の際に捧げる、芋の収穫祭であるということもまた、中国をルーツにするという見方があります。

お月見をしようでは、月見行事のルーツが不明であることを述べた上で、

最近の研究によると、中国各地では月見の日にサトイモを食べることから、もともとはサトイモの収穫祭であったという説が有力となっています。
その後、中国で宮廷行事としても行われるようになり、それが日本に入ったのは奈良~平安時代頃のようです。


と、紹介しています。


中秋が芋の収穫祭であったことは、確かに文献の上でも確認できます。

中秋の時期になると、その土地の神を祭り、町や村では演劇が行われており、いわゆる秋の収穫祭であることが書いてあります。
具体的にはどのような状況であったかというと、

夜に月餅、芋魁を薦め、神及び先祖を祀る。
(廈門志「風俗記」)


また、この夜には「聴香」といって、婦人達が香を壁の間にかけて占ったりすることが記されています。

つまり、中秋の時期に、月餅と芋を神や先祖に捧げる風習があることが窺えます。
「中秋の名月」が「芋名月」と呼ばれる所以である、この芋の収穫祭のルーツについては、大陸の影響と断定する前に、東アジア世界において、芋の栽培がいつから行われてきたのか、ということを明確にしなければならないでしょう。


芋食の習慣は、『史記』にもありますが、いわゆる「唐芋」(サトイモの一品種)は、紀元前には品種として成立していることが明らかとなっています。
『栽培植物の自然史』によると、唐芋などの芋類の品種は、中国で分化・発達した後、日本に伝わったとありますから(サトイモは江戸時代中期以降に伝来)、中国での芋の収穫祭が、月見の時期に行われていたことが起源というのは、ある意味、的を射た説です。


ただ、農耕社会において、はじめての収穫物を神に捧げるという風習は、世界各地で見られるものですが。






現在では、丸い月見団子とススキを伴えるのが一般的です。



ススキは、秋の七草のひとつ(尾花)です。
高さが1.5mにも達する大型の多年草で、屋根葺きにつかったことから「カヤ」とも呼ばれ、人びとの生活に密着した植物ですが、同じイネ科のチガヤと同様に、薬効があります。
利尿・解毒・風邪・高血圧などです。

また、このことからススキには呪術力をもつと見られています。
沖縄などで行われるシバサシは、時間と空間を守るための魔除けと考えられており、秋の景物であると同時に、ススキに対する霊力が、月見の際に用いられる要因でしょう。




団子を供える理由は、『東都遊覧年中行事』に中国からの風習とあります。
つまり、中秋節に月餅を食べる風習が、日本に入り、団子を食べるようになったということです。

近世の月見団子は今よりも大きかったようで、

お月様へ供へる団子は、径二寸位にて十五個、九月は十三個


2寸位というので、だいたい直径6~7㎝の団子を、十五夜の際には15個、十三夜には13個用意していたことがわかります。



十三夜は、十五夜に対して「後の月(あとのつき、のちのつき)」ともいわれますが、十五夜が中国から伝わったものであるのに対し、十三夜は日本独特の風習です。
食べごろの豆や栗をお供えするので、十五夜の芋名月に対して「豆名月」「栗名月」ともいわれます






月見の風習は、中国から伝わってきた儀礼に日本の習俗が交じり合い、近世以降、庶民の力によって現在の形に整えられてきたものと考えられます。

「月見」の名称は日本のもので、中国では「観月」となります。




ちなみに、団子の並べ方は、地域によって異なるようです。
個人的にはどちらかというと、「月より団子」的なところがありますが、直径6~7㎝の団子は、食べるのも大変そう。

江戸時代には、団子汁にしていたようですが、できれば、そのままきな粉でいただきたいものです。



タグ:月 月見

衣服の標章・姫君女君の見つけ方 [民俗・行事]

suzumushi.JPG

和装の婚礼衣装に、白無垢・打掛の他、最近では十二単も一般的になってきました。

皇室の影響ですね。

ブライダル関係者によると、秋篠宮妃、皇太子妃、黒田清子氏の婚礼の前後には、特にその需要が伸びたということで、当時はニュースなどでも取り上げられていました。

セルフプロデュースが主流になってきたブライダル業界において、和装派ユーザーが自らのビッグイベントに華やかな十二単を選ぶのも納得がいきます。
先日も某芸能人が着用したことで、ブライダル業界では十二単の需要がまた伸びるのでは?との見解も見られます。

[参照]ウェディングプランナーミュウの日記



十二単の華やかな衣装に、昔の姫君・女君は、こんなに重たい衣装をつけていたのか、と感じた方は多いと思います。
現代人の感覚では、

身分の高い人=いいものを着ている人

ですから。

しかし、平安時代の姫君・女君は、普段はもっと楽な服装をしていました。
今でも、正装と普段着があるように、平安時代の衣装は、大きく3つに分けることができます。

(1)正装
(2)ハレの衣装
(3)ケの衣装

現代風に直せば、

(1)イブニングドレス
(2)スーツ
(3)ジーパン

のようになるでしょうか。

いわゆる十二単は(2)にあたります。
十二単は俗称で、正式には、唐衣・裳を着用することから、「五衣唐衣裳(いつつぎぬ・からぎぬ・も)」といいます。
十二単の「十二」は、12枚重ね着したわけではなく、何枚も重ね着することからこの名称がつきました。寒いときには、12枚、いや、それ以上着込む例もあります。
とはいえ、平安末期から鎌倉時代には重ね着する袿を5枚までとする「五衣の制」が定められます。
よほど華美になってきたのでしょう。

具体的にどんなものを着るのかというと、よく知られていますが、次のような感じです。

・ 襪(しとうず)
・ 小袖(こそで)
・ 細帯
・ 袴
・ 単(ひとえ)
・ 袿(うちぎ)←「五衣」はこれ。数枚重ね着する。
・ 打衣(うちぎぬ)
・ 表衣(おもてぎぬ、「表着(うわぎ)」とも)
・ 裳(も)
・ 唐衣(からぎぬ)

「襪(しとうず)」は今でいう「足袋」ですが、40歳以上の方がはくものです。
ただし、相手が40歳以上(目上)の場合は、40歳以上でもはくことができません。


「袴」には、「濃袴」と「緋袴」があります。
前者は、特に濃い紅~濃蘇芳~紫系の色を指しますが、これも時代的な変遷があるようです。
「緋袴」は紅色ですので、それとは区別した赤紫系の色になるのですが、その区別も、実はあまりないようです。

有職故実を記した『筆の霊(ふでのみたま)』には、

雅亮装束抄に、紅のはかま、こきはかま、濃き張りばかまなど云り、今は俗にそれを官女と云者のみ著る者として緋の袴と云り


とあり、「緋袴」でまとめられています。
ただ、たいていの有職故実には「未婚者は濃色、既婚者は緋色(紅色)」で区別されています。
また、単に年齢によって区別したり(若=濃袴、大人=緋袴)、ハレ(濃袴)とケ(緋袴)で区別したりと、いろいろありますが、『源氏物語』などにはこの区別はあまり見られません。
平安・鎌倉時代にはまだしっかりと区別が確立していなかったようです。

最近では、十二単の袴も、動きやすさを重視した対丈の、卒業式でおなじみの「切り袴」をよく見かけますが、これは明治以後に女官の正装として定着しました。
が、やはり袴は「長袴」に限ります。


「表衣」に対して、「単」「袿」「打衣」は「内着(うちぎ)」と呼びます。


これらの十二単の総重量は20kgほど。
着付けは、仮ひも2本で行い、最後に裳の紐のみで固定されるので、苦しくありません。
ただ、下手な着付け方をされると、肩にすべての重みが加わり、肩がこります。



ちなみに、平安時代には、この面倒な装束の着付に対する「衣紋道(えもんどう)」が生まれます。
今でいうファッションコーディネーターの役割を担っていました。
また、鎌倉時代には、その「衣紋道」の家柄が登場します。
「高倉流」と「山科流」です。

衣紋道に関して説明すると、また長くなりそうなので、こちらを参照ください。
とてもよくまとまっています。

[参照]綺陽会


十二単の説明をもう少し続けると。

十二単の衿合わせもいろいろありまして、だいたい次の5通りです。

e01.gif
(A)点々前
すべて1つずつ合わせる。

e02.gif
(B)一つ衿合わせ
小袖以外、すべて1つに。

e03.gif
(C)単別一つ衿合わせ
単のみ点々前に、他は一つ衿。

e04.gif
(D)比翼衿合わせ1
単、五衣のみ一つ衿。

e05.gif
(E)比翼衿合わせ2
五衣を2、3に分けて一つ衿。
単は点々前。


現在の皇室は、(D)での着付です。
確認したところ、皇室の場合は、単も点々前でした。


なお、現在は、小袖の下に長襦袢を着るので、下にもう1枚衿が見えるはずです。



この十二単は、女房装束(にょうぼうしょうぞく)ともいい、宮廷や貴族の家の女房(侍女)が、主人の前に侍し、また客の応対をするときに着用するものです。
主人の前では、礼を欠かさぬよう、きちんとした格好をしなければならず、おのずと女房の制服のようになっていったわけです。


これに対し、

(1)正装
(2)ハレの衣装
(3)ケの衣装

の(1)正装は、この十二単の上に、「比礼(ひれ)」「裙帯(くたい)」をつけ、「額(ひたい)」と称する金属の飾り(宝冠)を頭につけ、さらに釵子(さいし=かんざしのようなもの)をつけ、公私の儀式に着用します。


これに対して、(3)ケの衣装は、日常の普段着。
主に小袿細長が着用されます。
女房たちは、後宮や貴族の家では、主人の前にいるときはハレの衣装を着用しなければなりませんので、このケの衣装になれるのは、自分の局にいるときか、実家に帰っているときです。
ですから、後宮や貴族の家で、このケの衣装を身に付けているのは、その家の姫君や女君たちとなるわけです。

衣装によって、その登場人物の身分が窺えることは、こちらでも触れていますね。


『源氏物語』は、現代人にとっては難解だと思われてきました。
それは、古典にありがちの、主語がわからない、ということからです。

そこで、『源氏物語』を理解するにはアーサー・ウェーリーの英訳版など、英語版を読むのが手っ取り早い、と言われた時期があります。

が、『源氏物語』を読むのに、いきなり英語版を読む日本人はあまりいません。
では、古典を原文で読むときに何に注意すればいいのか?
それは、敬語の表現をみて、主語が誰か読み取るわけです。
A・Bという2人の人物がいて話をしていたとします。
AがBに敬語を使っていれば、Bの方が身分が上というわけです。

また、『源氏物語』では、女性に対する表現に気をつけるのもポイントです。
たとえば、それまで「姫君」と称されていた若紫が、次のシーンでは「女君」と称された場合、若紫と源氏の君の間に男女の関係があったことがわかります。
『源氏物語』には、こういう表現で、微妙な関係を描くことがよく見られます。
気になる方は、1度、専門書をご覧になるといいかもしれません。

ちなみに、よくダイジェスト版やHOW TO本、源氏関係のサイトなどで見られる間違いが、桐壺帝の中宮で、源氏の君の継母である「藤壺」の表記。
「藤壺の女御」と書かれていることがたまにあります。

「女御」とは摂関家の娘などを示すものであり、先の帝の皇女である藤壺は、「女御」とは称しません。
『源氏物語』では、「藤壺の女御」という人物が出てきますが、これは別の人。
物語にも、源氏の君の継母である藤壺に対しては、「妃の宮」と記されることはあっても、「女御」とは記されていません。

その後、「女御」という称も時代にしたがい若干変化しますが、『源氏物語』ではこのようになっています。



少し脱線しました。



つまり、その人物の衣装をみることによって、身分もある程度わかるわけです。

たとえば。

『源氏物語絵巻』の「鈴虫・一」に描かれた左の女性は、従来、女三の宮と考えられてきました。
冒頭の画像が、その絵巻の個所です。
部屋にいる女性が、女三の宮で、外に立っている質素な衣装の女性は女房だと考えられてきたわけです。

しかし、修復が進むにしたがって、左の女性の衣装に裳が描かれていることがわかったのです。

suzumushi2.JPG
↑の真ん中あたりに、白っぽい帯のような紐のようなものが確認できると思いますが、これが裳です。
裳をつけている女性が、女三の宮であるはずがありません。

つまり、この女性は女三の宮の身のまわりの世話をする女房であり、右手に立っていた、白っぽいラフな衣装をまとった女性こそが女三の宮だと判明したのです。




ただ、小袿は完全なる普段着、つまりリラックスウェアーというわけではなく、やはり多少は礼儀を正したものです。


『源氏物語』若菜上巻の、柏木が女三の宮の姿を垣間見する場面。

几帳のきは、すこし入りたる程に、袿姿にて立ち給へる人あり。階より西の二の間の東のそばなれば、まぎれ所もなく、あらはに見入れらる。紅梅にやあらん、濃き、薄き、すぎすぎに、あまた重なりたるけぢめ、花やかに、草子のつまのやうに見えて、桜の、織物の細長なるべし。


猫のいたずらで御簾が上がり、その几帳の少し奥のところに、蹴鞠をする公達を見つめる女三の宮が立っています。
「袿姿」ということから、この女性が女三の宮であることがわかりますが、蹴鞠を見学するのに、まったくの普段着というわけではさすがにないでしょう。


また、若菜下巻の、六条院での女楽の場面を見てみましょう。

宮の御方を、のぞき給へれば、人よりけに小さく、うつくしげにて、ただ、御衣(ぞ)のみある心ちす。匂やかなる方はおくれて、ただ、いとあてやかに、をかしく、二月の中十日許の青柳の、わづかにしだり始めたらん心地して、鴬の羽風にも乱れぬべく、あえかに見え給ふ。
桜の細長(ほそなが)に、御髪(おぐし)は、左・右よりこぼれかかりて、柳の糸のさましたり。「これこそは、限りなき人の御有様なめれ」と見ゆるに、女御の君は、おなじやうなる御なまめき姿の、いま少し匂ひくははりて、もてなし・けはひ、心にくく、よしあるさまし給ひて、よく咲きこぼれたる藤の花の、夏にかかりて、かたはらに並ぶ花なき朝ぼらけの心ちぞ、し給へる。さるは、いと、ふくらかになるほどになり給ひて、悩ましくおぼえ給ひければ、御琴もおしやりて、脇息におしかかり給へり。
ささやかに、なよびかかり給へるに、御脇息は、例の程なれば、およびたる心ちして、「殊更に、小さくつくらばや」とみゆるぞ、いと、あはれげにおはしける。紅梅の御衣に、御髪のかかり、はらはらと清らにて、ほかげの御姿、世になくうつくしげなるに、紫の上は、葡萄染にやあらむ、色濃き小袿(こうちぎ)、薄蘇芳の細長に、御髪のたまれるほど、こちたくゆるるかに、大きさなどよきほどに、やうだいあらまほしく、あたりに、匂ひ満ちたる心ちして、花といはば、桜にたとへても。なほ、ものよりすぐれたるけはひ、殊に物し給ふ。
かかる御あたりに、明石は、けおさるべきを、いと、さしもあらず、もてなしなど、気色ばみ恥づかしく、心の底ゆかしきさまして、そこはかとなく、あてになまめかしく見ゆ。
柳の、織物の細長、萌葱にやあらむ、小袿きて、うすものののはかなげなる、ひきかけて、ことさら卑下したれど、けはひ・思ひなしも、心にくく、あなづらはしからず。高麗(こま)の青地の錦の、はしさしたるしとねに、まほにも居で、琵琶をうち置きて、ただ、けしき許りひきかけて、たをやかに使ひなしたる撥(ばち)のもてなし、音(ね)を聞くよりも、又ありがたく、なつかしくて、「五月待つ花たち花」の、花も実も具(ぐ)して、おし折れる香りおぼゆ。


「宮の御方」とは、女三の宮です。
琴の琴を担当。
桜の色の細長を着用。

「女御」は、源氏と明石の上の娘、そして紫の上の養女となった明石の女御。
箏の琴を担当。
紅梅の上着を着用。

紫の上は、和琴を担当。
紅紫かと思われる濃い色の小袿に、薄蘇芳の細長を重ねています。

明石の上は、琵琶を担当。
柳の色の厚織物の細長に下へ萌葱かと思われる小袿を着て、薄物の簡単な裳を着用。


なお、「院」は源氏の君です。


明石の女御は、現在妊娠中のため、あまり詳しい記述がありませんが、残る3人の衣装を見てみると、だいたい「小袿」「細長」を着用。
身分は、上から、女三の宮→明石の女御→紫の上→明石の上となります。
1番身分の低い明石の上は、明石の女御のお世話係りもしていることから、自ら女房の格を示すために裳を着用しているわけです。
この辺りに身分の違いがきちんとあらわれています。

この女楽は、朱雀院の五十賀に開催されたものですから、普段着といっても、現代でいうと、そのまま近所に出かけても恥ずかしくない程度のきちんと感があるわけです。

野分巻で明石の上は、

端近うゐたまへるに、御前駆追ふ声のしければ、うちとけ萎えばめる姿に、小袿ひき落として、けぢめ見せたる、いといたし。


と、源氏の君の来訪に糊気の落ちた袿の上から、さらに小袿を羽織って居住まいを正すという場面があるように、「小袿」は少しきちんとしたものでもあるようです。

まったくのラフな普段着というのは、空蝉巻に見られるような格好かもしれません。

白き羅(うすもの)の単襲(ひとへがさね)、二藍の小袿だつ物、ないがしろに着なして、くれなゐの腰ひき結へるきはまで、胸あらはに、ばうぞくなるもてなしなり。


蒸し暑いとはいえ、なかなかあられな格好をしています。
空蝉の継娘である軒端の荻の格好です。
暑いので、部屋で下着姿のままゲームをしている、という感じでしょうか。
ちなみに夕霧の妻・雲井の雁も、なかなかしどけない普段着姿を披露してくれています。

『とりかへばや物語』でも、男君(実は姫君)のしどけない普段着姿が披露され、その姿に宰相中将が「男だとわかっているけど~」状態で、抱きつく場面があります。


紫の上と明石の上の着ていた「細長」ですが、これは諸説があって明確ではありません。
ただ、『源氏物語』や『枕草子』から判断すると、唐衣や裳の代用に着るものであり、袖は唐衣のように短く、おくみがなく、脇がひらき、丈が細長いものだったと考えられます。

女楽では、明石の女御以外の3人がこの「細長」を着ています。
「小袿」だけよりも、若干きちんと感はあるわけです。

ただ、若菜上巻で、「細長」を着ている女三の宮を「袿姿」と記していることから、プライベート空間における両者の違いは、あまりないのかもしれません。



このように、衣装に着目することで、物語の人物や、どういう身分にある人間かを特定することができるわけです。


こうして、作品の世界を楽しむのもいいかもしれません。
ファッションのTPOも、こうして楽しむといいですね。


タグ:衣装 源氏

花見の季節・梅から桜へ [民俗・行事]

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[引用]工房摩耶


今年は暖冬のためか、梅の開花も早くなっています。
この時期になると、かすかな、梅の芳醇な(?)香りに、春を感じます。

花見というと、通常、「桜」の花見を連想します。

確かに日本人に愛され、日本を代表する花かもしれません。
いわゆる、「白磁にさっと紅を刷いたような」、白と見まごうばかりの薄紅色の可憐な花びらは、とても愛らしいですね。
桜好きの故・宇野千代氏に限らず、日本人の心を色づかせる花です。

桜が愛されるようになったのは、平安時代。

桜の花見は、嵯峨天皇が宮中で催した宴が最初だといわれますが、平安時代では、「花」=「桜」
『源氏物語』の「花宴」は「桜を鑑賞する宴」を意味しており、他の花を鑑賞する場合は、単に「花見」「花宴」とはいいません。

『源氏物語』の明石巻に、

春・秋の、花・紅葉のさかりなるよりも


とあるように、春・秋の花の対比で、春の桜は「花」と称され、秋の紅葉は「紅葉」とその固有名が記されています。
これは梅でも同じで、末摘花巻では、

「たゞ、梅の花の色のごと。三笠の山の少女をば捨てゝ」


とあります。
つまり、桜は「花」、桜以外の花はその固有名が記されているのです。

このことは現在の歌(和歌・連句など)の世界でも同じ。

たとえば、連句では表6句では必ず2つの季節を詠む、月の句、恋の句、雑の句、花の句を入れるなど、いろいろな規則があります。
花の句は、初折と名残の折のどちらも裏で1句ずつ2ヶ所で詠むこととなっており、初折の裏11句目、名残の裏5句目が花の座、初折の裏11句目は動かしてもいいが、名残の裏5句目は通常動かさないなどの決まりごとがあるわけです。

花の句は、通常、春の句。
そして、単に「花」と詠む場合は、「桜」を指しています。

もちろん、花の発句で始まった場合は、初折の裏の花は桜か梅がいいなどありますが、原則は「桜」です。


このように、

花=桜

というイメージが定着しています。
しかし、平安以前、つまり奈良時代には、

花=梅

のイメージが強いのです。



「梅」は、古くから日本(九州北部)に自生していたという説もありますが、奈良時代以前に、中国文化と共に遣唐使が薬木として、中国(湖北省・四川省)から日本に持ち帰ったものといわれています。

『箋註倭名類聚抄』には、

皇国古くは梅なし、ゆえに古事記日本書紀に皆是物なし、後に西土より之を致す。


とあり、大陸から渡来したもののようです。


唐では、杜甫や李白が、「梅」にちなんだ漢詩をたくさん詠んだことから、積極的に中国文化を摂取していた奈良時代の知識人は、春先に咲く典雅な梅をこよなく愛しました。
(このような中国の影響の例は、菊で長寿・重陽の節供などで若干ふれています)


たとえば、杜甫の「江梅」には、

梅蕊臘前に破るれば、梅花年後に多し。


という一節があり、梅のつぼみが12月にふくらみはじめれば、年明けにはいつもの年より梅が多く咲くとあります。
冬と春の交代、春を告げる花が、「梅」なのです。

白居易の「春至」には、春が来たようすを、梅と柳であらわしています。

白片の落梅は、澗水に浮かび。
黄梢の新柳は、城墻より出でたり。


現代の感覚だと、「桜と柳」ですが、中国では春を代表するのは「梅と柳」のようです。
杜審言の「晋陵の陸丞の早春遊望に和す」にも、

雲霞、海を出でて曙け、
梅柳、江を渡りて春なり。
淑気、黄鳥を催し、
晴光、緑蘋に転ず。

海から生まれたような雲や霞、夜は明けて行き、
梅や柳のつぼみは長江を渡って、ここはすっかり春の色。
暖かな風はうぐいすに鳴くことをうながすし、
明るい陽射しは緑色の浮き草に揺れ輝いている。


と、梅と柳の組み合わせが見られます。
ちなみに杜審言は杜甫の祖父です。


このような中国文化の影響のもと、『万葉集』には「萩」の次に「梅」が多く詠まれています。

(第5巻815番歌・大弐紀卿)
正月立ち春の来らば かくしこそ梅を招きつつ 楽しみ終へめ


この歌は、大伴旅人の邸宅で詠んだ梅の歌32首の最初の歌。
その序文によると、

天平2年正月13日に太宰府の帥・大伴旅人の邸宅で宴会をした。
天気がよく、風も和らぎ、梅は白く色づき、蘭が香っている。
嶺には雲がかかって、松には霞がかかったように見え、山には霧がたちこめ、鳥は霧に迷う。庭には蝶が舞い、空には雁が帰ってゆく。空を屋根にし、地を座敷にしてひざを突き合わせて酒を交わす。
楽しさに言葉さえ忘れ、着物をゆるめてくつろぎ、好きなように過ごす。
梅を詠んで情のありさまをしるそう。


ということで、春が来たら、こうして梅を見ながら楽しもうよ、という歌です。

その他、この宴で詠まれた歌を2~3首紹介すると。

(第5巻818番歌・山上憶良)
春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ

大意:春になるとまず咲く我が家の梅の花を、一人で見て春の日を過ごしましょう。


(第5巻820番歌・小令史田氏肥人)
梅の花 今盛りなり 百鳥の 声の恋しき 春来るらし

大意:梅の花が今を盛りと咲いています。たくさんの鳥の声を聞きたくなる春が来たのですね。


(第5巻827番歌・小典山氏若麻呂)
春されば 木末隠りて 鴬ぞ 鳴きて去ぬなる 梅が下枝に

大意:春がやってくると梢に隠れて鴬が梅の下枝に鳴きわたります。




梅は春を告げる花であり、冬の代表である「雪」との対比もよく見られます。

(第5巻849番歌・大伴旅人)
残りたる雪に交れる梅の花 早くな散りそ 雪は消ぬとも


残雪にまじっている梅、これが紅梅か白梅かで印象はかなり変わりますが、たいていこういう場合は「白梅」が多いです。

『三代実録』に、

東宮の紅梅


とあることから、紅梅は9世紀半ばに渡来したと思われます。

(第8巻1649番歌・大伴家持)
今日降りし 雪に競ひて 我が宿の 冬木の梅は 花咲きにけり


これも雪と梅との対比です。

平安時代に入っても、しばらくは中国文化の影響から「梅」が主流でしたが、『古今和歌集』になると、「桜」の歌が多くなります。
ただ、この時期はまだ「花=梅」のイメージが強く、桜は「桜花」「花桜」と表現されています。

  春の初めに詠める   藤原言直
春やとき花やおそきと聞き分かむ鶯だにも鳴かずあるかな


この「花」は梅です。
春の来たのが早いのか、梅の花の咲くのが遅いのか、声を聞いて判断したいその鶯さえもまだ鳴かないことだ、という意味です。

  雪の降りけるを見てよめる   紀友則
雪ふれば木ごとに花ぞさきにけるいづれを梅とわきてをらまし


これも、「花」は梅を指しています。
「白梅」です。
雪の中に咲いた梅の花を、どうやって見分けて手折ればよいのだろうか、という内容ですから。


そのうち、『源氏物語』で見たように、「花=桜」が定着していきますが、それでも、春を告げる花として、梅は和歌に詠まれつづけていきます。

ただ、御所の紫宸殿の前庭にある「右近の桜、左近の橘」の桜は、『続後紀』には、もともとは紫宸殿の前庭には梅が植えられていたことが記されており、『古事談』にも、

南殿の桜樹はもと是れ梅樹なり


とあるように、桜は梅にかわって貴族社会ひいては日本文化に浸透していったことが窺えます。




さて、こういう花を見る、いわゆる「花見」の起源は何かというと。


嵯峨天皇が宮中で催した宴が最初だという説は最初に挙げましたが、『徒然草』にはすでに娯楽としての花見が見えます。

(第137段)
花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行衞知らぬも、なほ哀に情ふかし。咲ぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所おほけれ。
歌の言葉書きにも、「花見にまかれりけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、「さはる事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」といへるに劣れる事かは。
花の散り、月の傾くを慕ふならひはさる事なれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などはいふめる。


この花見では、貴族風の花見とそうでない田舎ぶりの花見の違いが説かれているわけですが、すでに飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎを予感させる、楽しげなものです。

有名なところでは、豊臣秀吉の醍醐の花見などがあるでしょう。

また、花見の風習が庶民に広まったきっかけは、江戸時代に徳川吉宗が江戸の各地に桜を植えさせ、花見を奨励してからだといわれています。




とはいえ、もともと「花見」とは、季節の変わり目(節分)に、植物を愛で、その生命力を身に付けることが目的でした。
この辺りのことを書くと、長くなるので割愛しますが。

梅には、果実としての存在に加えて、平安時代の日本最古の医学書『医心方』に、「梅干」の薬効が記されているように、重陽の節供の「菊」と同様に、その植物の効能や生命力を身に付け、健康を願うわけです。
現代に健康志向にも通じる感覚ですね。



今年の梅見では、そういうリフレッシュを兼ねて楽しんでみてはいかがでしょうか。

「花より団子」というのも、それはそれで楽しそうですが。


タグ:花見

子の成長・天皇家のお宮参り [民俗・行事]

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[引用]京都ちりめんや


11月に、秋篠宮家の第三子・悠仁親王が、皇居内の賢所皇霊殿神殿にお参りする「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」が行なわれます。

いわゆる、一般の「お宮参り」です。
ご誕生から、もう50日が経ったのですね。

平安時代には、誕生後50日目と100日目には、祝宴が行なわれました。
五十日(いか)とか百日(ももか)と呼ばれるものです。

『紫式部日記』には、

御五十日は霜月のついたちの日。
例の人々のしたててのぼりつどひたる御前の有樣、繪にかきたる物合(ものあはせ)の所にぞ、いとよう似て侍りし。御帳の東の御座のきはに、御几帳を奧の御障子より廂の柱までひまもあらせず立てきりて、南おもてに御前の物はまゐりすゑたり。
西によりて大宮のおもの、例の沈(ぢん)の折敷(をしき) 何くれの臺なりけむかし。そなたのことは見ず。御まかなひ宰相の君讚岐、とりぐ女房も釵子 元結などしたり。若宮の御まかなひは、大納言の君、ひんがしによりてまゐりすゑたり。
小さき御臺 御皿ども 御箸の臺 洲濱なども、ひひな遊びの具と見ゆ。それよりひんがしの間の廂の御簾すこしあげて、辨の内侍 中務の命婦 小中將の君など、さべいかぎりぞ取り次ぎつつまゐる。奧にゐてくはしうは見侍らず。


とあり、幼児の前に小さいお膳・お皿・お箸台・洲浜などを並べ、餅を供したものです。

この餅は、身分の上下に関わらず、市の餅を用いることとなっており、15日までは東の市、16日以降は西の市の餅を、だいたい50果求め、これに摩粉と漿煎を混ぜて供することとなっています。


『紫式部日記』には、50日の祝宴に、めのとにいだかれた若宮の姿が描かれています。

こよひ少輔のめのと色ゆるさる。ここしきさまうちしたり。宮いだき奉れり。
御帳のうちにて、殿のうへいだきうつし奉り給ひて、ゐざりいでさせ給へり。火影の御さまけはひことにめでたし。赤いろの唐の御衣 地摺の御裳うるはしくさうぞき給へるも、かたじけなくもあはれに見ゆ。大宮は葡萄染の五重の御衣、蘇芳の御小袿奉れり。殿、もちひはまゐり給ふ。


現在は、50日を過ぎたころに行なわれる行事として、お宮参りが定着しました。

お宮参りは、その土地の守り神である産土神(うぶすながみ)に赤ちゃんの誕生を報告し、健やかな成長を願う行事です。
昔は、氏神さまに参拝して新しい氏子(うじこ)として神さまの祝福をうける行事とお産の忌明けの儀式の意味合いもありましたが、皇室では、皇祖神のいらっしゃる三殿に向かいます。


三殿とは、宮中祭祀の行なわれる場所で、皇居内吹上御苑の東南にある、賢所、皇霊殿、神殿の総称です。
皇室の祭祀は主としてここと各地の山陵で行われています。

賢所は、明治以前の京都御所にもありましたが、皇霊殿と神殿は明治維新以降の宮中祭祀制度の再編にもっとも尊い御殿とされ、かつては恐れ畏(かしこ)むの意味で「威所」「恐所」とも書かれました。
明治以前は天皇のお側近く仕えた内侍が奉仕したため、内侍所と呼ばれ、また、あるいは温明殿(うんめいでん)、春興殿(しゅんこうでん)という名も残っています。

賢所の次に位置づけられる皇霊殿は、神武天皇から昭和天皇に至る歴代天皇、皇后、皇族方をお祀りしています。

神殿には、八神、天神地祇が祀られています。


悠仁親王はこの三殿にお参りすることになるわけです。



宮中で祭祀が行なわれる由来は、『日本書紀』に記されています。

天照大神、手に寶鏡を持ちたまひて、天忍穗耳尊に授けて、祝きて曰はく、「吾が兒、此の寶鏡を視まさむこと、當に吾を視るがごとくすべし。ともに床(ゆか)を同くし殿を共にして、齋鏡(いはひのかがみ)とすべし」とのたまふ。


「この宝鏡を私(=天照大神)だと思って宮中に祀るように」という意味であり、これが鏡を奉斎する賢所の起源です。


鏡をご神体にする神社は多いですが、そのルーツがここにあります。
そのため神社には、鏡が多くあります。
京都・北野天満宮には、多くの鏡が奉納されており、鏡を神聖視するあり方を垣間見ることができます。



「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」を終えると、悠仁親王は紀子妃に抱かれて御所を訪ね、天皇、皇后両陛下にあいさつされます。

この辺りの中継があるとうれしいのですが。


神楽と鳴物・神事と音楽の関係 [民俗・行事]

三社祭・出光美術館.jpg
[引用]三社祭・出光美術館


まつりを盛り上げるものとして、音楽があります。

たとえば、
神事の際に奉納される、神楽。
神社音楽として有名な、雅楽。
祇園祭や天神祭などで鳴りひびく、鳴物。など。



音楽の起源は、有史以前まで遡ることができますが、おそらく最初の音楽は歌声でしょう。

声。

感情の起伏により発せられる声の抑揚から、リズムが生まれたと考えられます。
その際に、手拍子などを伴ったかもしれません。

音楽はまず、人間の体を使って発せられた、コミュニケーションの手段だったのです。


人間が集まり、1つの共同体の中で生活するにしたがい、みんなで行なう作業が出てきます。
狩猟や農耕など、生きるためにはお互いの意思疎通が大切になりますし、目的の成功を願ったり、達成したよろこびを分かち合ったりするなど、心を1つにさせる手段が生み出されるのは、ごく自然ななりゆきです。

古代の音楽が、祈りや祝祭、あるいは狩りや儀式など当時の生活に密着したものであることは、このことから容易に想像ができます。




神事の話に戻りますが。

先にあげた、神楽、雅楽、鳴物には、それぞれ役割分担があります。



神事で奉納される神楽は、「神座(かむくら)」が転じたものとする説が一般的です。
その起源は、

『日本書紀』神代紀に、

猿女君の遠祖天鈿女命(あまのうずめのみこと)、すなわち手に茅纏の矛を持ち、天石窟戸(あまのいはやと)の前に立たして、巧に作俳優(わざをき)す。また天香山の真坂樹をもって鬘にし、蘿(ひかげ)をもって手繦にして、火処焼き、覆槽(うけ)置せ、かむがかりす。この時に、天照大神、聞しめして曰さく、「吾、このごろ石窟に閉り居り。おもふに、まさにに豊葦原中国は、必ず為長夜くらむ。いかにぞ天鈿女命かくえらくや」とおもほして、乃ち御手を以て、細に磐戸を開けて窺す。時に手力雄神、すなわち天照大神の手を奉承りて、引きいだしまつる。


とあります。


アメノウズメが持つ矛は、それを持ちあるしぐさを行なうことを『古事記』では、「胸乳を掛き出で裳緒をほとに忍し垂れき」とあるように、少しセクシャルな要素もありますが、豊穣や活力を高めるなど、生命力を司るシンボルです。
ここでは、隠れてしまった太陽に活力を与えようとしたものです。

また、アメノウズメの身につけるものは、現在も神事で見かけるものが多いと思います。
たとえば、京都・葵祭では、参列する奉仕者が葵の葉を身につけていますし、植物(上記の『日本書紀』では「ひかげ」になっています)のたすきをかけているのもよく見かけるでしょう。
これらは、その聖なる植物の力を身につけることで、邪気をはらい、その力の加護を得るためのものです。


アメノウズメは、このように聖なる力を身につけて、太陽に活力を与えようとしているわけです。

『古事記』にも同様の記事がありますが、アマテラスの岩戸隠れの段でアメノウズメが神がかりして舞った日本神話が神楽の起源とされています。

猿女君は宮中において鎮魂の儀に携わっており、これは猿女君がその役割をになうことになった由来である、祖先のアメノウズメの活躍を描いたものですが、ここから、神楽の元々の形は鎮魂・魂振に伴う神遊びであったと考えられます。





雅楽は、中世以前に中国や朝鮮半島、南アジアから伝わった儀式用の音楽が元になっています。

日本には、神楽歌・大和歌・久米歌などがあり、これに伴う簡素な舞もありましたが、5世紀頃から仏教文化の渡来と前後して音楽や舞が伝わってきました。
雅楽は、日本古来の歌や舞と、渡来してきたものが融合してできたもので、10世紀ごろに完成。
皇室の保護のもと、伝承されてきたものですが、これが廃れた時期もありました。

現在では、宮内庁のものが有名ですが、そも基礎となったのが、近代以前に三方楽所とされていた、大阪・四天王寺の天王寺楽所、京都・宮中の大内楽所、奈良・春日大社の南都楽所です。
この三方楽所は、現在でも伝統を守りつづけています。


これら雅楽は、神事の際に、神を慰撫する役割を持っています。

この辺り、神楽とよく似ていますが、神楽が、神への奉納(鎮魂・魂振)という役割を明確に持つのに対して、雅楽にも、そのような要素は認められつつも、儀式音楽としての役割を担っているようです。
おそらく、皇室の保護のもと存続され、形式が整えられてきたことも、その理由でしょう。


神楽が奉納の際に行なわれ、雅楽が儀式の間、演奏されるのはこのためです。



しかし、この雅楽は、神事の最重要部分においては、演奏されません。

神事の最重要部分とは、いわゆる、神おろし。
まつりのために、ご神体を移す部分です。

本来、この部分は、秘儀ですから公開されません。
京都・上賀茂神社の御阿礼神事がこれです。

もともと神おろしは、夜の暗い中で行なわれていました。
仲哀天皇の記事からもそれが窺えます。
現在も、上賀茂神社の御阿礼神事や、奈良・若宮神社の若宮おん祭がそうです。



つまり、秘儀、なのです。




現在は、観光客相手のため、日中に行なわれることも多いですが、それでも、その部分は非公開です。


日中の行なわれる場合、この部分においては、おそらく多くの神社でもそうだと思いますが、演奏は止まります。
その代わり。


「お~~~~~~、お~~~~~~」


という神社関係者の低い唸り声が聞こえてくるはずです。

もしくは、無言


神事の最重要部分は、古来の様式によってとり行なわれているのです。





鳴物ですが、これは、大阪・大阪天満宮の天神祭がわかりやすいかも。


船渡御の際に、「人形船講」の船が列外船として、鳴物を鳴らし、自由に走り回っています。
これは、神の巡行の際に先導役の厄除けという意味を持っています。
人形船講には猿田彦の人形が乗っていますが、これは「露払い」といい、わざと錫杖を引きずって地面と触れさして音を発することで悪霊を退散させることで、猿田彦が皇孫ニニギノミコトの先導をつとめた神話に由来します。


江戸時代、参勤交代のための大名行列の先頭に、

「した~に~、した~に~」

と言って進むのも、似たようなものです。

京都・祇園祭のコンチキチンも、「鳴物」に相当しますね。


鳴物は先導役・邪気払いですから、雅楽と同様、重要部分においては演奏を止めなければなりません。



このように、音楽にも役割分担があることをふまえて見学するのも楽しいですよ。

瑞祥・人々の願い [民俗・行事]

プリンセスキコ・ランの館.jpg
[引用]ランの館


秋篠宮悠仁親王のご誕生をめぐって、不思議な現象が報告されているようです。

正直、このニュースを見た時は、「現代でも、こういうことが意識されるんだな」と思いました。


【プリンセス・キコ開花】

秋篠宮夫妻の結婚にちなんで命名され、秋篠宮様が手植えされた蘭「プリンセス・キコ」が、紀子妃の懐妊が明らかになった直後に偶然開花したことが、今年2月9日にわかった模様。

名古屋市中区の「ランの館」によると、懐妊の報道があった7日夜から8日朝にかけて、2004年5月に秋篠宮様が植えられた2鉢のうち1つが、初めて開花したという。

nikkansports.com:
http://www.nikkansports.com/ns/general/f-so-tp0-060209-0003.html


蘭の開花の時期などは、環境や品種によって異なるので、この時の開花が必然だったのか偶然だったのか不明ですが、偶然にしても、人々の心には、懐妊の喜びと重なったことでしょう。



【厳島神社の御鳥喰で神鴉出現】

5月15・16日の厳島神社の末社七つを巡拝する御島廻(おしままわり)式において行なわれる「御鳥喰(おとぐい)式」。

厳島大神が鎮座地を求めて島を巡った際、神鴉が先導したとされる伝説にちなんだ神事で、養父崎神社の沖に粢を浮かべると、雌雄一対の神鴉が団子をくわえて去るという。

神鴉はケガレを嫌い、現れないと「鳥喰が上がらない」として、よくない兆しともされた。
ここ5年間、5月の御鳥喰式に神鴉は現れなかったとうが、今年は現われたという。

http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/miyajima/29.html



【福岡上空に彩雲】

秋篠宮様が公務のために熊本県を訪問中の5月25日、福岡県内の上空でパステルカラーに彩られた雲「彩雲」が観測されたという。
彩雲は、古くは「慶雲」「瑞雲」と呼ばれ、めでたいことが起きる前兆。

YOMIURI ONLINE フォトニュース:
http://show.yomiuri.co.jp/photonews/photo.php?id=9721




この他、懐妊発表前の1月に、琵琶湖で黄色のビワコオオナマズが捕獲され、その10日後にも、東近江市内で別の黄色のナマズも捕獲されたり、竜の形をした雲が目撃・撮影されたりと、「悠仁親王」と瑞祥で検索すると、いろいろと出てきました。


瑞祥とは、天の意志であり、為政者に下す天命です。
祥は吉凶の発現、瑞は天が宝をもって人の徳に応ずることを示しており、具体的には、鳥獣・草木・河・泉・気象・鉱石その他さまざまな事物が、王の資質・王朝の興亡をあらわすものとして登場します。

例えば、『漢書』の「王莽伝」では、王莽が、漢に代わって天下を保有すべきであるとする趣旨を説く上で、数々の瑞祥の報告や符命など、天命に関わる予兆の収集が行われています。

日本でも、孝徳朝の「白雉」をはじめ、奈良時代には瑞祥にもとづく改元の例を多く確認できますし、瑞祥には、為政者側の意図が加わることもありました。



このような瑞祥システムが、現在も機能しているというのは、非常に興味深い。


人間の心に根付いているこのような思想・思考が、行事を継承させていくのでしょうね。


タグ:瑞祥 誕生

子孫繁栄・天皇家の出産あれこれ [民俗・行事]

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[引用]バースデープレス


ケーキ2006年9月6日に、秋篠宮家に親王誕生という慶事がありました。
皇孫の中でも、はじめての親王ということで、誕生後の儀式などがよく紹介されています。


どんな儀式が行われるのか、現在と平安時代を比較してみましょう。

皇族の誕生については、戦前の日本帝国憲法において、旧皇室親族令および同令附式に「皇子誕生式」として規定されており、現在もだいたいそれに従って行われています。


(1)着帯

現在:

安産をいのり、妊娠5、6ヶ月目に内御着帯式、9ヶ月目に正式な御着帯式が行われます。
これは江戸時代中期からの儀式。

御着帯式は、出産が軽いといわれる犬にちなんで、妊娠9ヶ月目の戌の日に実施。
御着帯式で使われる帯は、内側が紅、外側が白の生平絹、長さ4m55cm、幅46cm。
それを幅半分を折り、三重にたたんで2羽の鶴と若松が金泥で描かれた和紙で二重に包み、桐の蒔絵の箱に収めたものを、男子皇族の中の最年長者がなる「帯親」が天皇より預かり、今回の場合は秋篠宮家に届けられます。(御帯進献の儀)
それを、夫である秋篠宮様によって妃のお腹に結ばれるわけです。


平安時代:

妊娠3、4ヶ月目になると里第に退出してから、着帯の儀が行われます。
帯は、現在は天皇家側により用意されますが、平安時代は、妻の家柄・経済力が夫の政治力を支えていたこともあり、妊婦の親戚により用意され、儀式も、僧を招いて加持・祈祷を行った後で行われました。

出産までは、もののけが現れてお産を妨げるので、このように加持・祈祷が常に行われるわけです。
『源氏物語』にも、葵の上のお産に際して加持・祈祷が行われています。

また、いざお産になり難産になると髪を一部切って受戒を受けさせることも。
『餓鬼草紙』には出産の場面に、土器の破片が散乱しているものが見えますが、これもおそらく、土器を割ることによって邪気を祓っているのでしょう。

ちなみに出産の際に見られる行為としては、ヤマトタケルとその双子の兄が生まれるとき、その父・景行天皇は大きな臼を背負って安産を祈っている場面などもあります。



(2)産屋の準備

現在:

現在では、宮内庁病院(今回は違いますが)で出産されるので、特に部屋を整えたりすることはないのですが、宮内庁病院がなかった昔、平成天皇の母・香淳皇太后が、天皇を出産される際には産殿が増築されています。


平安時代:

産屋は、それまであった装束や調度が撤去され、すべての調度品は白一色に整えられました。

白は、奈良時代には天皇の色であり、また神事の装束でもあります。
長くなるので詳しくは書きませんが、女帝の即位の装束は白です。

ここで産屋を白一色にするのは、仏教の影響が強いでしょうね。



(3)へその緒・乳づけ

古来の風習として、へその緒は竹刀で切るわけですが、現在はさすがに使いませんよね。

昭和天皇の時代までは乳人(めのと)制度があったので、これは形だけですが、出産後、母となった人がはじめて子に授乳させることを「乳づけの儀」と呼びます。



(4)賜剣の儀

現在:

旧皇室親族令附式では、誕生後、はじめての儀式が、これ。

出産が午前0時から午後5時の場合は出産当日、出産が午後5時以降の場合は、出産と翌日に、病室の枕元に、天皇からの使者を通じて、親王の場合は守り刀、内親王の場合は刀と、着袴の儀で使われる袴が贈られます。


平安時代:

天皇から使者は近衛中将です。
ただ、内親王の場合にも刀が贈られるようになるのは、三条天皇の皇女禎子内親王の時から。



(5)浴湯の儀・読書鳴弦の儀

現在:

誕生から7日目(お七夜)に行なわれる儀式。

女官に抱えられながら檜のたらいに入れられ、湯を浴びられる所作をします。
その間、白い幕で仕切られた向こう側で、読書(とくしょ)の役が国書(『日本書紀』の推古天皇に関する一節)を読んで文運を、2名の鳴弦(めいげん)の役が左足を一歩踏み出して掛声のもと矢のない弓の弦を2度引き放って武運を祈ります。

これは、破魔(はま)の儀とも言われています。


平安時代:

『御産部類記』によると、陰陽師によって日時が決定
一条天皇の中宮彰子の御産の場合、出産後約8時間の後に行なわれています。

『紫式部日記』によると、陰陽家の勘文にしたがって、吉方の流水を汲み、同時に御湯殿の設備が整えられます。白絹を敷き、その上に御槽が立てられ、すべての調度が白絹で覆われます。
奉仕する側も白装束で、熱い湯を水でうすめながら、16の缶に分配し、湯巻姿の女房2人によって奉仕を受けます。

その後、僧の祈祷を受けて、読書鳴弦の儀が行なわれるのですが、読書博士3人が読むのは、『史記』『孝経』その他の漢籍の一節で、それを3回ずつ読みます。
鳴弦は、ただ弦のみを鳴らす作法で、『紫式部日記』には、読書博士3人の後ろに鳴弦が五位10名、その後ろに六位10人が並んで行われたことが記されています。


この儀式は、7日間にわたって朝夕2回行なわれます。
現在の7日目の儀式は、かなり簡略されているわけですね。



(6)産養(うぶやしない)

平安時代には、誕生の当夜、3日目、5日目、7日目、9日目の夜にお祝いが行なわれています。
これを「産養」といいます。

『紫式部日記』には、3日目の夜に、「啜粥(すすりがゆ)」が行なわれます。
声高に常套句を唱え、粥をすする。
この動作を3回繰り返します。

7日目には、命名。
この風習は現在も行なわれています。
いわゆる「お七夜」で、浴湯の儀の後に天皇から、今回の場合だと、秋篠宮様によって「命名の儀」が行なわれます。




誕生にまつわる儀式は、つつがない成長を祈って行われる大切なもの。

現在と平安時代を比較するのも楽しいですね。

タグ:天皇 出産
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